昭和23年04月30日 衆議院 本会議 [003] 法務総裁(日本社会党) 鈴木義男

旧字版(新字版は下)
昭和23年04月30日 衆議院 本会議
[003]
法務総裁(日本社会党) 鈴木義男
 今回神戸・大阪に発生いたしました朝鮮人の騒擾事件は、まことに遺憾な事件であります。私は、二十七、八の両日にわたり、現地についてつぶさに調査いたしてまいつた次第であります。これを詳細に申し述べまするには長時間を要しまするので、ここにごく簡略に概要を御報告申し上げ、他は御質問等に應じて委員会等において申し述べたいと存じます。
 今回の事件は、山口・岡山の場合と同じく、政府の方針に基きまして、大阪府・兵庫縣知事が、朝鮮人だけで経営し、朝鮮語をもつて朝鮮の子弟だけを教育する学校―もちろん初等義務教育でありまするが、これをその府縣内に許しておくことは適当でないと思いまして、すべて日本の教育基本法に則る教育に改めますために、朝鮮人の学校に閉鎖を命じ、それぞれの校舎の管理をそれぞれの自治体に委ね、朝鮮人も入学せしめる、朝鮮語による教育を欲するならば、課外においてこれを、なすべきことを要請いたしましたるところ、朝鮮人諸君は、それを不当としてこの命令に服することを拒み、多数の威力によつて各知事らをしてこの命令を撤回せしめんとして起つた事柄であります。
 そもそも終戦後、朝鮮人は第三國人となつたのでありますから、政府はしばしぱ声明を発して、連合國最高司令官の指令に基き、朝鮮に帰る者は喜んで便宜を供與する、しかし、朝鮮に帰りたくない、または帰ることのできない者は日本に残ることを許すが、日本に残る以上は、日本國法に從い、その義務を盡すことを條件として、健全なる生活を営むことを許しておるわけであります。しかるに、朝鮮人諸君のうちには――決して全部と申すのではありません、多少の朝鮮人諸君は、いかにもわが國におつて治外法権に類するものをもつておるかのごとき考え方をいたしまして、わが國法に從うことを肯じない者がありますることは、私どものはなはだ遺憾に存じておるところでありまして、今回のことも、そういうところに端を発して発生いたしたものと考えるのであります。
 私は、現地について調査いたしました結果、思つたよりもこれが組織的、計画的に企てられた暴動であることに氣づいたのであります。それぞれ日本の帝國主義の復活というような宣傳が行われ、どうしても朝鮮民族独自の文化を育成するために、民族独自の学校をもたなければならないというような見地から、特殊の主張をもつていることは認めまするが、とにかく、あくまで自分たちの学校を保有しようという態度を捨てなかつたのでありまして、それが神戸・大阪における不幸なる騒擾事件に発展をいたしたわけであります。
 その前の経過はすべて省略いたしまするが、政府の方針に基きまして朝鮮人学校の閉鎖を命じ、かつ学校校舎の返還を求めたのでありまするが、なかなか聽かれなかつた。そこで兵庫縣知事は、四月十日、来る十二日を限つて閉鎖をし、同時に校舎の管理権を市長に返すべきことを要請いたしたのであります。しかし、学校経営者はこれを受け容れなかつたのでありまして、かえつて知事に求めてこの閉鎖命令を撤回せしめようとしまして、四月十五日兵庫縣知事を尋ねて、知事がおらなかつたために副知事の室に立てこもりまして、翌日までいわゆるすわりこみ戦術を行いまして、強談を試みたのであります。しばしば退去の命令を出しましたが、応じなかつたのであります。そこで神戸検察廰は、やむを得ず、その数百人のうち、特にこのすわりこみ戦術をしましたところの七十名を、住居侵入罪として検挙いたしまして、そのうち六十五名を拘留いたしたのであります。これに対し毎日のように返還要求があつたことはもちろんであります。
 しかて、神戸市当局といたしましては、ぜひとも返してもらわなければならぬ。そうして教育基本法に基く学校をつくつて、そこにはいつていただこうという趣旨から、神戸市長が学校校舎の返還を求める仮処分を申請することに相なりまして、神戸裁判所の容るるところとなつて、占有を執達吏に移しまする決定が出ましたから、これを執行するために、四月二十三日、二宮、稗田、神楽の三小学校に赴いたのであります。いずれも朝鮮人諸君が立てこもつておりますので、多少の警察官の助力を得なければ執行することができないだろうということから、二宮、稗田の両小学校は、百五十人ずつの警官を連れてまいつたのでありまして、さいわいに抵抗を排除して、これは執行を完了いたしたのであります。神楽小学校には、すでに朝鮮人が多数占拠しておるということでありまするので、特に警官を二百名増員を求めまして、そうして執達吏が執行に参つたのでありますが、千二百名の朝鮮人諸君が占拠いたしておりまして、一歩も中に入れないというようなことから、遂に執行不能に終わつたものであります。
 そこで、神戸市当局、縣当局並びに検察廰当局は、この仮処分をいかにすべきかということについて協議をする必要を生じましたので、二十四日の午前九時半から、兵庫縣廰三階の西南隅の知事室に、兵庫縣側といたしまして岸田知事、古川副知事、井手国家警察長、それから三宅国家警察警備部長、中田視学の六名、市側から小寺市長、関助役、古山市警察局長、安田秘書課長、小山保安部長、村上警備課長、田村公安委員の七名、それから田中渉外事務局長、市丸検事正、田辺次席検事、この十六名が参集をいたしまして、この仮処分を強力に続行するか、それともしばらく形勢を見て延期するかということについて、午前九時半から協議を始めておつたのであります。なお二十六日に数万の朝鮮人を動員してデモンストレーションを行うということが伝えられておりましたので、このデモに対してどういう対策をとるかというようなことも協議いたしておつたそうであります。
 内部に、この要人諸君が集まつて相談をしておるということを朝鮮人の諸君に伝えた者があるらしいのでありまして、十時半ごろから、三々五々朝鮮人諸君が集まつてまいりまして、十一時ごろ数百人に達し、これがなだれこんでまいりまして、三階の知事室の前の廊下に充満いたしたのであります。そうして代表者が知事に面会を求めて、しきりに喧騒を極めたそうでありまして、しばらくドアを閉じて防いでおつたそうでありますが、遂に力及ばずして、体当りでドアを破るというようなことから、さらに控えの間から知事のおるほんとうの部屋に行くのでありますが、その間の壁を体当たりで破りまして、たくさんの穴をこしらえて、その穴を潜つてなだれこんでまいりまして、まず、机上に電話が三台あたのでありますが、みなこれを床上にたたきつけてその線を切る、それから机の上のガラスその他を壊す、いす、テーブル等を打壊すというような乱暴狼藉を働きまして、しかる後談判を開始したわけであります。
 要するに、朝鮮人は独自の教育機関をもつ権利をもつておるのである、これを奪つて、あえて日本の小学校に入れようとするのは、日本帝国主義の再現である。われわれは断じてこれ服することはできない、そういう命令は撤回せよということを、いろいろな言葉を用いて、繰返して迫つたそうであります。数時間同じ交渉を継続して、知事を殺せ、何をぐずぐずしておるのであるかというような叫び声、喚声がしきりに聞えておつたそうでありまするが、この正面入口は、スクラムを組んで、日本人は何人も入れない、警察官も絶対に入れないという態勢をとりまして、しばしば突破して入ろうといたしましたけれども、どうしても入ることができなかつたというのであります。
 そこで、進駐軍の将兵でありますならば入ることができるであろうというので、クルップ憲兵大尉が、下士官二名をつれまして知事の救援に参つて、これは知事室まで入ることができたのであります。しきりに談判をしております諸君を制止して、退去することを命じたのでありまするが、どうしても應じない。そこで、ピストルを放つということでピストルを向けたそうでありますが、朝鮮人は胸を拡げて、射て、自分たちはそんなことを恐れてここに來たのではないのである。命は投げ出しておるのであつて、死を賭してきたのであるから、射つならば射てということで、こもごも詰め寄るというようなわけでありまして、僅かの弾で処理できる問題ではないということを考えて、より強力なる救援の手を借りるべく、クルップ大尉は下士官二名とともに一時引揚げたそうであります。神戸地区の治安を掌つておりまする最高官は、神戸地区憲兵司令官メノハー准將でありまするが、ちようどその日准將が京都の方に行つておりましたために、その帰りを待たなければ臨機の処置をとることができなかつたわけであります。
 その間に強談威迫が重ねられまして、形勢が刻々険悪になつていき、どうしても外部からの援助は期待できないということから、岸田知事は心弱くも撤回するという意思を表示したのでありまして、それならば、それを文書に認めてほしいということ、になりまして、文書に認めて渡す。そうなりますると、この閉鎖命令を撤回した以上は、これを原因として拘留されておる六十五名の同志は、拘留せられておる理由がないはずである、ゆえに即時釈放せよということを檢事正に迫つたそうでありまして、檢事正も、一應理由あることでありまするから、やむを得ず釈放指揮に署名するということでありまして、田辺檢事が朝鮮人諸君に護られて退出をして、この釈放の手続をいたしたのであります。釈放が終りまするや、これでよろしい、それならば、今日ここでやつた乱暴は一切不問に附するという一札を書けということに相なりまして、その趣旨の文書を手交いたしまして、五時ごろ引揚げたそうであります。
 その後、神戸地区の司令官メノハー代將が帰つてこられまして、この事態を廳きまして、非常に驚かれるとともに憤られまして、第八軍司令部と連絡をとりました結果、非常事態の宣言を行うということを声明せられまして、知事、市長、檢事正等を夜の十一時ごろ召集せられまして、今日暴行を働き、デモに加わつた朝鮮人並びに日本人は一齊に檢挙する、ゆえに助力せよ、こういう命令を受けまして、その晩から檢挙に着手したわけであります。
 なお知事と檢事正は、自由の身になりまするや、先ほどの意思表示は脅迫によるものであるから無効である、閉鎖命令は依然持続せらるるものであり、拘留も継続せらるるものである、一旦釈放した者も再びこれを拘留するということを宣言いたしまして、さらにこれを文書に認めて翌日声明をいたしたのであります。その後、アイケルバーカー中將も神戸まで飛行機でおいでになりまして、それぞれ指揮をせられたのであります。
 これが神戸における事件の概要でありまして、率直に申し上げて、事前に相当不穏の空氣があつたのでありまするから、かくのごとき重要な会議を開きまするにつきましては、警備についてもう少し用意をすべきものではなかつたか。殊に袋のねずみのように、行き止りの部屋で逃げ道はないのである。二十三日、大阪でさいわいに事なきを得ましたのは、副知事が裏のドアから脱出して逃げることができたからでありまして、その点では、あの部屋ではどうしても窓から街頭に飛びおりるほかに途はない、非常に高いところでありますから、飛びおりることはできませんので、はしごのようなものをかけておりるほかはなかつたのでありますが、そのはしごも遂に間に合わなかつたということでありまして、とにかくその点におきまして、会場を選ぶにつきましても多少不用意であつた。二十六日にデモが行われるということにのみとらわれて、連日計画的に、各地において継続的に、波状的にこの運動をやるということが企てられておることを計算に入れておらなかつたことは、遺憾ながら落度であつたと認めざるを得ないのであります。
 なお、國家警察の本部がすぐ縣廳の向い側にあり、電話で連絡ができる間にいたしたにもかかわらず、遂に一人の警官も縣廳内にはいつて救出に從事することができなかつたということも、まことに遺憾であつたと認めざるを得ないのであります。知事、檢事正が、あの立場において、生命の危険において、やむを得ず、権略的でありましようが、撤回の意思表示をいたした、釈放の意思表示をいたしたということは、これは深くとがめることは酷であると考えるのでありまするが、ただちにこれを取消して原状に復せしめたということは、せめてものことであると考えられるのであります。
 なおその後、私が立ちまするまでに千百余名、本日の報告によりますれば千六百名ほどを檢挙いたしたそうでありまして、そのうち、関係がない、あるいはごく関係が薄いと目されます者六百名ほどは釈放いたしまして、千名ほどが拘留せられておるのであります。メノ八一司令官の私に語られたところによりますれば、重き者は、内外人を問わず軍事裁判に付して処罰をし、その上朝鮮に送還するという考えである。軽き者は、言葉の関係もあり、取調べの敏捷化という点から、日本裁判権に移す。日本の檢察廳と裁判所は増員して敏活果敢にこの裁判を完了すべきことを要請せられておるのであります。これが神戸における概況であります。
 大阪におきましては、二十三日に同じようなへたりこみ戦術をもつて、府知事がるすでありましたため副知事に面会を求め、副知事は対談約三時間に及びましたが、結局解決点に到達しなかつたのでありまして、やむを得ず、かくのごとく同じことを繰返して談判をやつておつてもきりがないという見込みをつけまして、四時半ごろ、ひそかにうしろのドアから便所に行くような顔をして脱出をいたしまして府廰外に出たために、かくのごとき失態を演ずることはなかつたのでありまするが、その代り、脱出したことを知りまするや、交渉委員、行動隊として来ておりました人々は、裏切つたのではないか、なぜ副知事を逃がしたかということで、非常な仲間同士の爭諭が起りまして、それが一つの騒動を巻き起した原因でもあります。しかしながら、さいわいに大阪では、警察官が最初から府廳内にもはいつておりましたし、府廳外にも待機しておりましたから、それぞれ手分けをいたしまして、強制力を用いてこれを解散せしめたのであります。
 ところが二十五日になりまして、さらに強力に二万名を動員して、へたりこみ戦術によつて、どんなことをしても命令を撤回せしめずんばやまないという態勢を整えたのであります。情報によりますると、それぞれ戸別訪問をして、必ず出てこい、出てこない者は裏切者として朝鮮人の連盟から仲間はすれにする、あるいはリンチのようなものを行うという、ことをもつて、脅迫したというようなことも傳えられているのであります。あるいは、遠方から應援に夾る者のために米三合とか一升とか、金を二百円、三百円というふうに醵出せしめまして、これを遠夾の應援者のために割くというようなことにいたし、相当の準備を整えて、そうしてまず、三箇所に集結をして大会を開いて、それから大手前公園に集結する、こういうふうな順序になつておつたそうであります。なお前夜、明日の行動方針について、あくまで穏健に合法的にやろうではないかという一派と、あくまで断固死を賭してもやれ、もし警察または進駐軍等が弾圧をすることがあるならば、死を賭して闘うべしと、こういう強い議論をする一派とがありまして、徹宵議論を交換したらしいということでありますが、結局結論に到達せずして大会に臨んだらしいということが報告されておるのであります。
 それで、これは各三つにわかれてなされました会場においても盛んにアジ演説等が行われまして、それぞれ群衆を興奮させたのであります。今その一々を御紹介する訳にもまいらないのでありますが、代表的なもの一、二をあげますると、生野支部大会、これは大手前に來る前に行われた大会でありまするが、そこでは、日本共産党関西地方委員柳田春夫君が、次のようなメツセージを朗読して激励したということになつているのであります。
  私は日本共産党を代表して、朝鮮の皆様に激励の言葉を申し上げる。
  今回の日本政府が行いたる朝鮮人学校閉鎖命令に対しては、日本共産党は朝鮮の皆さんと同じく絶対反対し、皆様と一緒に共同闘爭を展開しております。朝鮮独立と朝鮮教育自主は絶対死守しなければならない事項であるということは、朝鮮の皆様は心肝に徹しなくてはならない。
  朝鮮人学校閉鎖命令反対闘爭は、朝鮮皆様の同胞が、下関や岡山や神戸において活発に展開せられ、多数の犠牲者を出しておられるのである。本日皆様が行われる闘爭がもし敗北せられた節は、これら多くの犠牲者が浮ぶことができないのでありますゆえ、本日の闘爭は、皆様が死しても目的達成に奮闘せられなければならぬ。
  わが共産党においても、皆様の必死の雄叫びに対し全面的に支持して、ともに共同闘爭を開始したのである。現に大阪府廳内には、われわれの同志が、皆様の夾るのを待つているのである。皆さん、本日の闘爭は朝鮮人の死活問題であるから、大なる奮闘のほどお祈りいたします。
 それから大手前公園に参りましてからは、各地代表が、あるいは全逓の大阪支部の代表とか、あるいは岡山からわざわざやつてきた代表、これは女の人でありますが、岡山では正々堂々と闘つて遂に勝つた、大阪に夾てみれば意氣地がないというようなことを申して、激励をしておるのでありまするが、また日本共産党の川上貫一という人は、朝鮮人教育問題は朝鮮人を奴隷化するものであり、働く人民大衆を無知に追い込まんとする支配階級の陰謀であり、これが芦田内閣の性格である、この闘爭に負けたら、さらに大なる弾圧が続くであろう、学校閉鎖は單に教育問題ではなく、民族闘爭であり、階級闘爭である、この重大意義を認識して強力に闘爭してもらいたいという趣旨の演説を試みております。その他無数の人々が、三十年間日本は朝鮮を併合して、筆舌に盡しがたい暴虚を加えた上、再び、われわれが朝鮮再建のために、愛する子弟を民族独自の立場から育てようとしておるのに、日本の帝國主義的統制のもとにもち夾さんとするものであつて、実に慨嘆にたえないという趣旨の演説を、繰返し繰返し行つておるのであります。
 そういうふうなことで、大分興奮をしてまいりまして、遂に二万名の群集が大手前の公園に集まつたのであります。知事室の前にも皆すわりこんで、知事室にも三十数名の代表がはいりまして、そうして数時間にわたつて盛んに撤回を迫つたのであります。知事はあくまで頑強にこれを拒否し続けたわけであります。
 事態が急であることを聞きまして、大阪軍政部長のクレーム大佐が、いま一人の中佐を伴われまして、四時ころ知事室にはいつてこられまして、もはや会談は無用であるから、これをやめるべき旨を指示されたのであります。さらに、そのときの代表者でありました玄何がしという朝鮮人の代表、朝鮮人連盟の幹部でありまするが、その人に、群集を解散させるように警察の命令を傳えろということを命じたのでありまして、鈴木警察局長は文書に書いて、こういうふうに群集に傳えて解散をさせるようにということを申したのであります。そこで玄代表は、メガホンをもつて申しましたけれども、なかなか解散する氣配は見えない。それでクレーム大佐は、一切の強力手段、武器を使つてもよろしい、こういうことを申されまして、できるだけ早くこの群集を解散させるようにということを命ぜられました結果、余儀なくポンプを持ち出しまして、ホースで水をかけて群衆の散れることを希望したのであります。これでよほど動いたそうでありまするが、なかなかそれでも、行動隊と称する尖鋭分子とみずから任じておられる方々は帰らない。そこで余儀なくピストルを発射するというような騒ぎが起こりまして、あるいはとうがらしを卵に入れてきて巡査にぶつつけて、目がつぶれた。そこをつかまえて袋たたきにしたというようなことも起りまして、双方相当のけが人が生じたのであります。これはまことに遺憾なことであります。
 殊に警察側の申すところによれば、故意にその少年をねらつて撃つたのではないそうでありますが、脅かすために撃つた彈が少年に当つて、十六歳の少年が遂に死亡するに至つたという報告を受けておるのであります。とにかく、その他重傷を負うた者が二、三あり、軽傷を負うた者も数十名ある。警官の側でも、けがをした者が、三週間の治療を要する打撲傷を初め、三十数名の警官が負傷いたしておるというようなことであるのであります。しかし、さいわいに警察官が敢然努力してくれました結果、その二万の大衆も徐徐に解散をいたしまして、靜謐に帰したのであります。ただちに時を移さず、そのおもなる者数百名を檢挙いたしたのでありますが、そのうち実際に煽動的な立場に立つて、行動隊として勇敢に活躍し、あるいは煽動をしたという者だけ三十五人を留置いたしまして、その他は身柄は釈放する、取調べの進むに從つて起訴するかもしれないが、身柄の拘束は解くという態度をとつておるのであります。
 神戸におきましては、その檢挙された者のうちに、七人の日本人がおります。共産党員とみずから名乗る神戸市会議員の何とかいう人を初め、日本人が七人おるのであります。また大阪の方では、九人の日本人が留置せられておるのでありまして、大部分が全逓の人及び共産党の党員であるということに報告されておるのであります。
 この両事件を通じまして、私どもはまことに遺憾に考えるのでありますが、今日はただ報告に止めておくのでありますから、これに関する感想を述べることは省略いたしますが、警察のあり方について考うべき点があるということは、主として今回現地において、親しくこの問題に關與した人々の意見を承つてまいつたところであります。制度として特に改革すべきものは今のところ認めないが、運用の上において幾多まだ熟せざるものがあつて、大いに考えなければならぬ点があるということに意見は一致しておるのであります。また朝鮮人諸君が、どうしたならば日本の法律を守つて、われわれとともに平和に生活をしていつてくれるようになるかということについて、眞劔に考えなければならないということを教えられたのでありまして、その点は、朝鮮人の間にも、すでに建國同盟あるいは居留民團とかいう方面の人々は、今回のやり方が非常に間違つたやり方である、あくまで合法的に交渉をし、また教育の問題もできるだけ日本と協調してやつていくべきものであるという考え方になつておるということを、すでに声明を出したものもあるという報告を受けておるのであります。
 なお、兵庫縣知事並びに検事正等の責任問題ということもありますが、それらは御質問がありましたならばお答えを申し上げまするが、知事がかりに若干の責めらるべきものがあるといたしましても、これは自治体の首長でありまして、中央政府において懲戒権のようなものはもつておらないのでありますから、兵庫縣会の問題として、また知事御自身の問題として考えていただくほかはないと考えております。檢事正の責任問題につきましては、法務廳において管轄いたしておるのでありますから、これについては十分に考慮し、善処いたすつもりであります。今日は、ただ専實の概要を、あまり批評を交えずに御報告だけいたした次第であります。



新字版
昭和23年04月30日 衆議院 本会議
[003]
法務総裁(日本社会党) 鈴木義男
 今回神戸・大阪に発生いたしました朝鮮人の騒擾事件は、まことに遺憾な事件であります。私は、二十七、八の両日にわたり、現地についてつぶさに調査いたしてまいつた次第であります。これを詳細に申し述べまするには長時間を要しまするので、ここにごく簡略に概要を御報告申し上げ、他は御質問等に応じて委員会等において申し述べたいと存じます。
 今回の事件は、山口・岡山の場合と同じく、政府の方針に基きまして、大阪府・兵庫県知事が、朝鮮人だけで経営し、朝鮮語をもつて朝鮮の子弟だけを教育する学校―もちろん初等義務教育でありまするが、これをその府県内に許しておくことは適当でないと思いまして、すべて日本の教育基本法に則る教育に改めますために、朝鮮人の学校に閉鎖を命じ、それぞれの校舎の管理をそれぞれの自治体に委ね、朝鮮人も入学せしめる、朝鮮語による教育を欲するならば、課外においてこれを、なすべきことを要請いたしましたるところ、朝鮮人諸君は、それを不当としてこの命令に服することを拒み、多数の威力によつて各知事らをしてこの命令を撤回せしめんとして起つた事柄であります。
 そもそも終戦後、朝鮮人は第三国人となつたのでありますから、政府はしばしぱ声明を発して、連合国最高司令官の指令に基き、朝鮮に帰る者は喜んで便宜を供与する、しかし、朝鮮に帰りたくない、または帰ることのできない者は日本に残ることを許すが、日本に残る以上は、日本国法に従い、その義務を尽すことを条件として、健全なる生活を営むことを許しておるわけであります。しかるに、朝鮮人諸君のうちには――決して全部と申すのではありません、多少の朝鮮人諸君は、いかにもわが国におつて治外法権に類するものをもつておるかのごとき考え方をいたしまして、わが国法に従うことを肯じない者がありますることは、私どものはなはだ遺憾に存じておるところでありまして、今回のことも、そういうところに端を発して発生いたしたものと考えるのであります。
 私は、現地について調査いたしました結果、思つたよりもこれが組織的、計画的に企てられた暴動であることに気づいたのであります。それぞれ日本の帝国主義の復活というような宣伝が行われ、どうしても朝鮮民族独自の文化を育成するために、民族独自の学校をもたなければならないというような見地から、特殊の主張をもつていることは認めまするが、とにかく、あくまで自分たちの学校を保有しようという態度を捨てなかつたのでありまして、それが神戸・大阪における不幸なる騒擾事件に発展をいたしたわけであります。
 その前の経過はすべて省略いたしまするが、政府の方針に基きまして朝鮮人学校の閉鎖を命じ、かつ学校校舎の返還を求めたのでありまするが、なかなか聴かれなかつた。そこで兵庫県知事は、四月十日、来る十二日を限つて閉鎖をし、同時に校舎の管理権を市長に返すべきことを要請いたしたのであります。しかし、学校経営者はこれを受け容れなかつたのでありまして、かえつて知事に求めてこの閉鎖命令を撤回せしめようとしまして、四月十五日兵庫県知事を尋ねて、知事がおらなかつたために副知事の室に立てこもりまして、翌日までいわゆるすわりこみ戦術を行いまして、強談を試みたのであります。しばしば退去の命令を出しましたが、応じなかつたのであります。そこで神戸検察廰は、やむを得ず、その数百人のうち、特にこのすわりこみ戦術をしましたところの七十名を、住居侵入罪として検挙いたしまして、そのうち六十五名を拘留いたしたのであります。これに対し毎日のように返還要求があつたことはもちろんであります。
 しかて、神戸市当局といたしましては、ぜひとも返してもらわなければならぬ。そうして教育基本法に基く学校をつくつて、そこにはいつていただこうという趣旨から、神戸市長が学校校舎の返還を求める仮処分を申請することに相なりまして、神戸裁判所の容るるところとなつて、占有を執達吏に移しまする決定が出ましたから、これを執行するために、四月二十三日、二宮、稗田、神楽の三小学校に赴いたのであります。いずれも朝鮮人諸君が立てこもつておりますので、多少の警察官の助力を得なければ執行することができないだろうということから、二宮、稗田の両小学校は、百五十人ずつの警官を連れてまいつたのでありまして、さいわいに抵抗を排除して、これは執行を完了いたしたのであります。神楽小学校には、すでに朝鮮人が多数占拠しておるということでありまするので、特に警官を二百名増員を求めまして、そうして執達吏が執行に参つたのでありますが、千二百名の朝鮮人諸君が占拠いたしておりまして、一歩も中に入れないというようなことから、遂に執行不能に終わつたものであります。
 そこで、神戸市当局、県当局並びに検察廰当局は、この仮処分をいかにすべきかということについて協議をする必要を生じましたので、二十四日の午前九時半から、兵庫県廰三階の西南隅の知事室に、兵庫県側といたしまして岸田知事、古川副知事、井手国家警察長、それから三宅国家警察警備部長、中田視学の六名、市側から小寺市長、関助役、古山市警察局長、安田秘書課長、小山保安部長、村上警備課長、田村公安委員の七名、それから田中渉外事務局長、市丸検事正、田辺次席検事、この十六名が参集をいたしまして、この仮処分を強力に続行するか、それともしばらく形勢を見て延期するかということについて、午前九時半から協議を始めておつたのであります。なお二十六日に数万の朝鮮人を動員してデモンストレーションを行うということが伝えられておりましたので、このデモに対してどういう対策をとるかというようなことも協議いたしておつたそうであります。
 内部に、この要人諸君が集まつて相談をしておるということを朝鮮人の諸君に伝えた者があるらしいのでありまして、十時半ごろから、三々五々朝鮮人諸君が集まつてまいりまして、十一時ごろ数百人に達し、これがなだれこんでまいりまして、三階の知事室の前の廊下に充満いたしたのであります。そうして代表者が知事に面会を求めて、しきりに喧騒を極めたそうでありまして、しばらくドアを閉じて防いでおつたそうでありますが、遂に力及ばずして、体当りでドアを破るというようなことから、さらに控えの間から知事のおるほんとうの部屋に行くのでありますが、その間の壁を体当たりで破りまして、たくさんの穴をこしらえて、その穴を潜つてなだれこんでまいりまして、まず、机上に電話が三台あたのでありますが、みなこれを床上にたたきつけてその線を切る、それから机の上のガラスその他を壊す、いす、テーブル等を打壊すというような乱暴狼藉を働きまして、しかる後談判を開始したわけであります。
 要するに、朝鮮人は独自の教育機関をもつ権利をもつておるのである、これを奪つて、あえて日本の小学校に入れようとするのは、日本帝国主義の再現である。われわれは断じてこれ服することはできない、そういう命令は撤回せよということを、いろいろな言葉を用いて、繰返して迫つたそうであります。数時間同じ交渉を継続して、知事を殺せ、何をぐずぐずしておるのであるかというような叫び声、喚声がしきりに聞えておつたそうでありまするが、この正面入口は、スクラムを組んで、日本人は何人も入れない、警察官も絶対に入れないという態勢をとりまして、しばしば突破して入ろうといたしましたけれども、どうしても入ることができなかつたというのであります。
 そこで、進駐軍の将兵でありますならば入ることができるであろうというので、クルップ憲兵大尉が、下士官二名をつれまして知事の救援に参つて、これは知事室まで入ることができたのであります。しきりに談判をしております諸君を制止して、退去することを命じたのでありまするが、どうしても応じない。そこで、ピストルを放つということでピストルを向けたそうでありますが、朝鮮人は胸を拡げて、射て、自分たちはそんなことを恐れてここに来たのではないのである。命は投げ出しておるのであつて、死を賭してきたのであるから、射つならば射てということで、こもごも詰め寄るというようなわけでありまして、僅かの弾で処理できる問題ではないということを考えて、より強力なる救援の手を借りるべく、クルップ大尉は下士官二名とともに一時引揚げたそうであります。神戸地区の治安を掌つておりまする最高官は、神戸地区憲兵司令官メノハー准将でありまするが、ちようどその日准将が京都の方に行つておりましたために、その帰りを待たなければ臨機の処置をとることができなかつたわけであります。
 その間に強談威迫が重ねられまして、形勢が刻々険悪になつていき、どうしても外部からの援助は期待できないということから、岸田知事は心弱くも撤回するという意思を表示したのでありまして、それならば、それを文書に認めてほしいということ、になりまして、文書に認めて渡す。そうなりますると、この閉鎖命令を撤回した以上は、これを原因として拘留されておる六十五名の同志は、拘留せられておる理由がないはずである、ゆえに即時釈放せよということを検事正に迫つたそうでありまして、検事正も、一応理由あることでありまするから、やむを得ず釈放指揮に署名するということでありまして、田辺検事が朝鮮人諸君に護られて退出をして、この釈放の手続をいたしたのであります。釈放が終りまするや、これでよろしい、それならば、今日ここでやつた乱暴は一切不問に附するという一札を書けということに相なりまして、その趣旨の文書を手交いたしまして、五時ごろ引揚げたそうであります。
 その後、神戸地区の司令官メノハー代将が帰つてこられまして、この事態を庁きまして、非常に驚かれるとともに憤られまして、第八軍司令部と連絡をとりました結果、非常事態の宣言を行うということを声明せられまして、知事、市長、検事正等を夜の十一時ごろ召集せられまして、今日暴行を働き、デモに加わつた朝鮮人並びに日本人は一斉に検挙する、ゆえに助力せよ、こういう命令を受けまして、その晩から検挙に着手したわけであります。
 なお知事と検事正は、自由の身になりまするや、先ほどの意思表示は脅迫によるものであるから無効である、閉鎖命令は依然持続せらるるものであり、拘留も継続せらるるものである、一旦釈放した者も再びこれを拘留するということを宣言いたしまして、さらにこれを文書に認めて翌日声明をいたしたのであります。その後、アイケルバーカー中将も神戸まで飛行機でおいでになりまして、それぞれ指揮をせられたのであります。
 これが神戸における事件の概要でありまして、率直に申し上げて、事前に相当不穏の空気があつたのでありまするから、かくのごとき重要な会議を開きまするにつきましては、警備についてもう少し用意をすべきものではなかつたか。殊に袋のねずみのように、行き止りの部屋で逃げ道はないのである。二十三日、大阪でさいわいに事なきを得ましたのは、副知事が裏のドアから脱出して逃げることができたからでありまして、その点では、あの部屋ではどうしても窓から街頭に飛びおりるほかに途はない、非常に高いところでありますから、飛びおりることはできませんので、はしごのようなものをかけておりるほかはなかつたのでありますが、そのはしごも遂に間に合わなかつたということでありまして、とにかくその点におきまして、会場を選ぶにつきましても多少不用意であつた。二十六日にデモが行われるということにのみとらわれて、連日計画的に、各地において継続的に、波状的にこの運動をやるということが企てられておることを計算に入れておらなかつたことは、遺憾ながら落度であつたと認めざるを得ないのであります。
 なお、国家警察の本部がすぐ県庁の向い側にあり、電話で連絡ができる間にいたしたにもかかわらず、遂に一人の警官も県庁内にはいつて救出に従事することができなかつたということも、まことに遺憾であつたと認めざるを得ないのであります。知事、検事正が、あの立場において、生命の危険において、やむを得ず、権略的でありましようが、撤回の意思表示をいたした、釈放の意思表示をいたしたということは、これは深くとがめることは酷であると考えるのでありまするが、ただちにこれを取消して原状に復せしめたということは、せめてものことであると考えられるのであります。
 なおその後、私が立ちまするまでに千百余名、本日の報告によりますれば千六百名ほどを検挙いたしたそうでありまして、そのうち、関係がない、あるいはごく関係が薄いと目されます者六百名ほどは釈放いたしまして、千名ほどが拘留せられておるのであります。メノ八一司令官の私に語られたところによりますれば、重き者は、内外人を問わず軍事裁判に付して処罰をし、その上朝鮮に送還するという考えである。軽き者は、言葉の関係もあり、取調べの敏捷化という点から、日本裁判権に移す。日本の検察庁と裁判所は増員して敏活果敢にこの裁判を完了すべきことを要請せられておるのであります。これが神戸における概況であります。
 大阪におきましては、二十三日に同じようなへたりこみ戦術をもつて、府知事がるすでありましたため副知事に面会を求め、副知事は対談約三時間に及びましたが、結局解決点に到達しなかつたのでありまして、やむを得ず、かくのごとく同じことを繰返して談判をやつておつてもきりがないという見込みをつけまして、四時半ごろ、ひそかにうしろのドアから便所に行くような顔をして脱出をいたしまして府廰外に出たために、かくのごとき失態を演ずることはなかつたのでありまするが、その代り、脱出したことを知りまするや、交渉委員、行動隊として来ておりました人々は、裏切つたのではないか、なぜ副知事を逃がしたかということで、非常な仲間同士の争諭が起りまして、それが一つの騒動を巻き起した原因でもあります。しかしながら、さいわいに大阪では、警察官が最初から府庁内にもはいつておりましたし、府庁外にも待機しておりましたから、それぞれ手分けをいたしまして、強制力を用いてこれを解散せしめたのであります。
 ところが二十五日になりまして、さらに強力に二万名を動員して、へたりこみ戦術によつて、どんなことをしても命令を撤回せしめずんばやまないという態勢を整えたのであります。情報によりますると、それぞれ戸別訪問をして、必ず出てこい、出てこない者は裏切者として朝鮮人の連盟から仲間はすれにする、あるいはリンチのようなものを行うという、ことをもつて、脅迫したというようなことも伝えられているのであります。あるいは、遠方から応援に夾る者のために米三合とか一升とか、金を二百円、三百円というふうに醵出せしめまして、これを遠夾の応援者のために割くというようなことにいたし、相当の準備を整えて、そうしてまず、三箇所に集結をして大会を開いて、それから大手前公園に集結する、こういうふうな順序になつておつたそうであります。なお前夜、明日の行動方針について、あくまで穏健に合法的にやろうではないかという一派と、あくまで断固死を賭してもやれ、もし警察または進駐軍等が弾圧をすることがあるならば、死を賭して闘うべしと、こういう強い議論をする一派とがありまして、徹宵議論を交換したらしいということでありますが、結局結論に到達せずして大会に臨んだらしいということが報告されておるのであります。
 それで、これは各三つにわかれてなされました会場においても盛んにアジ演説等が行われまして、それぞれ群衆を興奮させたのであります。今その一々を御紹介する訳にもまいらないのでありますが、代表的なもの一、二をあげますると、生野支部大会、これは大手前に来る前に行われた大会でありまするが、そこでは、日本共産党関西地方委員柳田春夫君が、次のようなメツセージを朗読して激励したということになつているのであります。
  私は日本共産党を代表して、朝鮮の皆様に激励の言葉を申し上げる。
  今回の日本政府が行いたる朝鮮人学校閉鎖命令に対しては、日本共産党は朝鮮の皆さんと同じく絶対反対し、皆様と一緒に共同闘争を展開しております。朝鮮独立と朝鮮教育自主は絶対死守しなければならない事項であるということは、朝鮮の皆様は心肝に徹しなくてはならない。
  朝鮮人学校閉鎖命令反対闘争は、朝鮮皆様の同胞が、下関や岡山や神戸において活発に展開せられ、多数の犠牲者を出しておられるのである。本日皆様が行われる闘争がもし敗北せられた節は、これら多くの犠牲者が浮ぶことができないのでありますゆえ、本日の闘争は、皆様が死しても目的達成に奮闘せられなければならぬ。
  わが共産党においても、皆様の必死の雄叫びに対し全面的に支持して、ともに共同闘争を開始したのである。現に大阪府庁内には、われわれの同志が、皆様の夾るのを待つているのである。皆さん、本日の闘争は朝鮮人の死活問題であるから、大なる奮闘のほどお祈りいたします。
 それから大手前公園に参りましてからは、各地代表が、あるいは全逓の大阪支部の代表とか、あるいは岡山からわざわざやつてきた代表、これは女の人でありますが、岡山では正々堂々と闘つて遂に勝つた、大阪に夾てみれば意気地がないというようなことを申して、激励をしておるのでありまするが、また日本共産党の川上貫一という人は、朝鮮人教育問題は朝鮮人を奴隷化するものであり、働く人民大衆を無知に追い込まんとする支配階級の陰謀であり、これが芦田内閣の性格である、この闘争に負けたら、さらに大なる弾圧が続くであろう、学校閉鎖は単に教育問題ではなく、民族闘争であり、階級闘争である、この重大意義を認識して強力に闘争してもらいたいという趣旨の演説を試みております。その他無数の人々が、三十年間日本は朝鮮を併合して、筆舌に尽しがたい暴虚を加えた上、再び、われわれが朝鮮再建のために、愛する子弟を民族独自の立場から育てようとしておるのに、日本の帝国主義的統制のもとにもち夾さんとするものであつて、実に慨嘆にたえないという趣旨の演説を、繰返し繰返し行つておるのであります。
 そういうふうなことで、大分興奮をしてまいりまして、遂に二万名の群集が大手前の公園に集まつたのであります。知事室の前にも皆すわりこんで、知事室にも三十数名の代表がはいりまして、そうして数時間にわたつて盛んに撤回を迫つたのであります。知事はあくまで頑強にこれを拒否し続けたわけであります。
 事態が急であることを聞きまして、大阪軍政部長のクレーム大佐が、いま一人の中佐を伴われまして、四時ころ知事室にはいつてこられまして、もはや会談は無用であるから、これをやめるべき旨を指示されたのであります。さらに、そのときの代表者でありました玄何がしという朝鮮人の代表、朝鮮人連盟の幹部でありまするが、その人に、群集を解散させるように警察の命令を伝えろということを命じたのでありまして、鈴木警察局長は文書に書いて、こういうふうに群集に伝えて解散をさせるようにということを申したのであります。そこで玄代表は、メガホンをもつて申しましたけれども、なかなか解散する気配は見えない。それでクレーム大佐は、一切の強力手段、武器を使つてもよろしい、こういうことを申されまして、できるだけ早くこの群集を解散させるようにということを命ぜられました結果、余儀なくポンプを持ち出しまして、ホースで水をかけて群衆の散れることを希望したのであります。これでよほど動いたそうでありまするが、なかなかそれでも、行動隊と称する尖鋭分子とみずから任じておられる方々は帰らない。そこで余儀なくピストルを発射するというような騒ぎが起こりまして、あるいはとうがらしを卵に入れてきて巡査にぶつつけて、目がつぶれた。そこをつかまえて袋たたきにしたというようなことも起りまして、双方相当のけが人が生じたのであります。これはまことに遺憾なことであります。
 殊に警察側の申すところによれば、故意にその少年をねらつて撃つたのではないそうでありますが、脅かすために撃つた弾が少年に当つて、十六歳の少年が遂に死亡するに至つたという報告を受けておるのであります。とにかく、その他重傷を負うた者が二、三あり、軽傷を負うた者も数十名ある。警官の側でも、けがをした者が、三週間の治療を要する打撲傷を初め、三十数名の警官が負傷いたしておるというようなことであるのであります。しかし、さいわいに警察官が敢然努力してくれました結果、その二万の大衆も徐徐に解散をいたしまして、静謐に帰したのであります。ただちに時を移さず、そのおもなる者数百名を検挙いたしたのでありますが、そのうち実際に煽動的な立場に立つて、行動隊として勇敢に活躍し、あるいは煽動をしたという者だけ三十五人を留置いたしまして、その他は身柄は釈放する、取調べの進むに従つて起訴するかもしれないが、身柄の拘束は解くという態度をとつておるのであります。
 神戸におきましては、その検挙された者のうちに、七人の日本人がおります。共産党員とみずから名乗る神戸市会議員の何とかいう人を初め、日本人が七人おるのであります。また大阪の方では、九人の日本人が留置せられておるのでありまして、大部分が全逓の人及び共産党の党員であるということに報告されておるのであります。
 この両事件を通じまして、私どもはまことに遺憾に考えるのでありますが、今日はただ報告に止めておくのでありますから、これに関する感想を述べることは省略いたしますが、警察のあり方について考うべき点があるということは、主として今回現地において、親しくこの問題に関与した人々の意見を承つてまいつたところであります。制度として特に改革すべきものは今のところ認めないが、運用の上において幾多まだ熟せざるものがあつて、大いに考えなければならぬ点があるということに意見は一致しておるのであります。また朝鮮人諸君が、どうしたならば日本の法律を守つて、われわれとともに平和に生活をしていつてくれるようになるかということについて、真劔に考えなければならないということを教えられたのでありまして、その点は、朝鮮人の間にも、すでに建国同盟あるいは居留民団とかいう方面の人々は、今回のやり方が非常に間違つたやり方である、あくまで合法的に交渉をし、また教育の問題もできるだけ日本と協調してやつていくべきものであるという考え方になつておるということを、すでに声明を出したものもあるという報告を受けておるのであります。
 なお、兵庫県知事並びに検事正等の責任問題ということもありますが、それらは御質問がありましたならばお答えを申し上げまするが、知事がかりに若干の責めらるべきものがあるといたしましても、これは自治体の首長でありまして、中央政府において懲戒権のようなものはもつておらないのでありますから、兵庫県会の問題として、また知事御自身の問題として考えていただくほかはないと考えております。検事正の責任問題につきましては、法務庁において管轄いたしておるのでありますから、これについては十分に考慮し、善処いたすつもりであります。今日は、ただ専実の概要を、あまり批評を交えずに御報告だけいたした次第であります。
前略と後略は省略、旧字は新字に変換、誤字・脱字は修正、適宜改行、
漢数字は一部アラビア数字に変換、一部括弧と句点を入れ替えています。
基本的に抜粋して掲載していますので、全文は元サイトでご確認ください。