昭和23年05月01日 参議院 本会議 [014] 法務総裁(日本社会党) 鈴木義男

旧字版(新字版は下)
昭和23年05月01日 参議院 本会議
[014]
法務総裁(日本社会党) 鈴木義男
 今回神戸、大阪に発生いたしました朝鮮人の騒擾事件は誠に遺憾な事件であります。私は二十七、八の両日に亘り、現地に就いて具さに調査いたして参つた次第であります。これを詳細に申述べまするには長時間を要しまするので、ここには極く簡略に概要を御報告申上げまして、他は御質問等に應じて委員会等において申述べたいと存じます。
 今回の事件は山口、岡山等の場合と同じく、政府の方針に基きまして、大阪府、兵庫縣知事が朝鮮人だけで経営し、朝鮮語を以て朝鮮人の子弟だけを教育する学校、初等義務教育でありまするが、その府縣内に許して置くことは適当でないというので、すべて日本の教育基本法に則る教育に改めまするために、朝鮮人の学校に閉鎖を命じ、それぞれの校舎の管理をそれぞれの自治体に委ねて朝鮮人も入学せしめる。朝鮮語による教育を欲するならば課外においてそれをなすべきことを要請いたしましたるところ、朝鮮人諸君はこれを不当としてこの命令に服することを拒み、多衆の威力によつて各知事らをしてこの命令を撤回せしめよとして起つたことであります。
 そもそも終戰後朝鮮人は第三國人となつたのでありますから、政府はしばしば声明を発して連合國最高司令官の指令に基き、朝鮮に帰る者は喜んで便宜を供與する。何らかの事情で朝鮮に帰ることを欲せず、又は帰ることのできない者は日本に残ることを許すが、その代り日本國法に遵い、その義務を盡すということを條件として、健全なる生活を営むことを許しておるわけでもあります。然るに我が國に居残つた朝鮮人諸君の中には、戰勝國民と共に第三國人であるという常識が強く、恰も治外決権を持つておるかの如き振舞をする者がありまするのは遺憾なことであります。今回の神戸、大阪の事件もこうした誤つた意識から発生したものではないかと考えられる節があるのであります。私は今回現地において詳細調査の結果、事が意外に計画的、組織的であつたことに驚いたのであります。便宜日の順序を逐うて大坂の事件から御報告いたしまするが、大坂におきましては四月十二日、十五日を期して閉鎖すべき旨を知事から指令いたしたのでありまするが、これに服せず、その撤回を求めるべく運動を開始いたしたのであります。二十三日に朝鮮人教育問題対策人民大会というものを開くことになりまして、一つのデモンストレーションを起すということになつたのでありまするが、朝鮮人諸君の主張は、要するに、独自の民族文化を育成するために独自の学校を持つべきである、又持つ権利を日本國内において持つておるというのでありまして、それについて、この大会を開くについて各方面に宣傳せられました代表的な演説の一つを御紹介いたしまするならば、「朝鮮人学校に対して今般閉鎖命令が発せられたことは、周知の事実である。日本は軍國主義の盛なりし時期において朝鮮を日本領土となし、三十数年間筆舌に盡せない侵略行行爲をなした。この度の戰争において日本は敗戰し、祖國朝鮮は独立國家として開放されたのである。このときにおいて、次代の朝鮮を背負う学童の教育機関である朝鮮学校を閉鎖せしめることは、日本帝國主義の再現である。日本政府の反動的なこの措置に対して、我々は飽くまでも対抗して最後の勝利を獲得しなければならない。」、こういつたような主旨の演説をし、或いは文書を廻しまして、そうしてこの大会に多くの朝鮮人諸君を組合したわけであります。
 これは後に至つて明らかになつたことでありまするが、この二十三日の日に、三カ所において先ず支部大会を開いて、そこでそれぞれ五千名、千名ぐらいの人が集合して演説をし氣勢を揚げた上で、大手前公園に集結をいたしたのでありまして、二十三日には約七千名の朝鮮人諸君が集合いたしたわけであります。それらのこの会場において演説をされましたものが蒐集されておりまするが、例えば日本共産党の河上貴一君は、「朝鮮人教育問題は、朝鮮人を奴隷化するものであり、働く人民大衆を無知に追い込まんとする支配階級の陰謀である。これが芦田内閣の性格である。この國争に負けたら、更に大なる弾圧が続くであろう。学校閉鎖は、單に教育問題ではなく、民族闘争であり、階級闘争である。この重大意義を認識して、強力に闘争して貫いたい。」又手に入つた一部の中には、革命前夜の組織的態勢を以て臨めというような指令も出ておるやに聞くのであります。
 又生野大会において、日本共産党関西地方委員柳田春夫君が次のごときメッセージを送つておるのであります。「私は日本共産党を代表して、朝鮮の皆様に激励の言葉を申上げる。今回の日本政府が行いたる朝鮮学校閉鎖命令に対しては、日本共産党は、朝鮮の皆様と同じく絶対に反対し、皆さんと一緒に共同闘争を展開しております。朝鮮独立と朝鮮教育自主は絶対死守しなければならなん事項であるということは、朝鮮の皆様は心肝に徹せなくてはならん。朝鮮学校閉鎖命令反対闘争は、朝鮮の皆様の同胞が、下関や岡山や神戸において活發に展開せられ、多数の犠牲者を出しておられるのである。本日皆様が行われる闘争が若し敗北せられた節は、これら多くの犠牲者が浮ぶことができないのであります故、本日の闘争は、皆様が死しても目的達成に奮闘せられなければならん。我が共産党においても、皆様の必死の雄叫びに対し全面的に支持して、共に共同闘争を開始したのである。現に大阪府廳前には、我らの同志が皆様の来るのを待つておるのである。皆さん、本日の闘争は朝鮮人の死活問題であるから、大なる奮闘の程お祈りいたします。」というような、激励の言葉が送られておるのであります。
 その結果とだけは申しませんが、無論この朝鮮人連盟諸君も、大体共産系の人が多いのでありまして、それらの人が激励いたしました結果、府廳前に集結し、その中特に行動隊として知事に面会して、知事をして撤回せしむる役割を務める諸君が約二千名、府廳の中になだれ込んだ次第でありまして、折から知事不在のため、副知事が面会をいたしたのであります。警官が五十名程中におりまして、できるだけ秩序の維持に当たりましたために、神戸におけるごとき不幸なる事態にまでは到達しなかつたのでありまするが、結局会見三時間余にして妥結いたしませんので、副知事は裏の扉から脱出したのであります。その脱出を知りまして、非常な裏切りである。逃したのであるというような仲間割れが生じ、混乱が起こりまして、退散を命じましたけれども聽かないというようなところから、一大混乱が起りまして、警官並びに朝鮮人諸君の間に多少の負傷者ができたというようなことは、誠に遺憾なことであつたのであります。大阪警察当局は約四千八百名の警官を動員いたしまして鎮圧に当りまして、幸いに解散せしめることができたのであります。翌日、翌々日数百名を検挙いたしましたが、事犯の軽微なる者は身柄を釈放いたしまして、起訴、不起訴は後に決定することにいたしまして、比較的重大なる者三十五名だけを拘留いたしたのであります。その中九人が日本人でありまして、大部分が全逓その他の共産党員の諸君であるということになつておるのであります。
 次に二十三日の神戸における状況でありますが、これは神戸におきましては、十日の日に閉鎖命令を出し、十二日を期して明け渡すべきことを求めたのでありまするが、服従しない、そこで神戸市長は、裁判所に仮処分を求めまして、この決定を得ましたので、仮処分の執行のために執達吏を向けたのでありまするが、二宮、稗田、神楽の三小学校に執行を命じたのでありまするが、朝鮮人諸君が立籠つておりまするので、警官の力を借りなければこの執行ができないことを察しまして、二宮、稗田の両小学校には百五十名ずつの警官を従えて行つて、辛うじて執行を終ることができたのであります。神楽小学校の方には二百名の警官を連れて参りましたが、千二百の朝鮮人諸君が立籠つておりまして、どうしても執行することができないで、執行不能で帰つて参つたのであります。
 そこで翌二十四日に、この執行をどうしようか、これ以上執行を強制しようとすれば流血の惨を見なければならない、暫く延期しようか。又二十六日には数万の朝鮮人諸君がデモを敢行するということを申しておりまするので、これをどういうふうに取締つたらよかろうかというような相談をいたすことになりまして、午前九時半から兵庫縣廳三階の西南隅の知事室に神戸市長、岸田知事、吉川副知事、或いは古山警察局長、或いは市丸検事正、田邊次席検事というような人々十六名が集まりまして相談をいたすことになつて、始めたのであります。ところが午前の十一時頃になりまして、内部から通報した者があるらしく、これらの人人が今会議をしておるということで、三三五五朝鮮人諸君が縣廳の附近に集合し来りまして、数百名に達しまするや、なだれ込んで来まして、知事達の前の廊下に座り込んだわけであります。そうして代表者、行動部隊といわれる人々がドアを蹴破つて入ろうとしたので、形勢の急迫しておることを知りまして、それぞれ連絡をいたしたのでありまするが、救援がなかなか来ない。その中に戸は破られ、更に控室から知事室に入るようになつておりまするが、その控室の壁を打破つて、そうして皆入つて来て、先ず机の上の三台の電話機を叩き落して線を切断し、更にガラスのようなものはめちやくちやに壊す、机、椅子、その他のものもそれぞれ破壊するというような乱暴をいたしまして、然る後談判に移つたわけであります。撤回せよ、しないということで押問答を繰返したわけでありまするが、日本の警察官がどうしても、玄関口をスクラムを組んで朝鮮人が占領しておるために入ることができない。そこで進駐軍のMPのクルツプ大尉が下士官二名を連れて参りまして、そうして知事その他を救援すべく知事室に乗込んで暴れたのであります。退去を命じましたが群衆は聴かない。ピストルを向けて撃つということを申しましたところが、胸をひろげて、撃て、我々はそんなことを怖れて来ておるのではない、命を投げ出して来ておるのであるから、撃つなら撃てというような有様でありまして、僅かの弾丸を以て解決し得べき問題ではないのでありまするから、更に強力なる應援を得べく、クルップ大尉以下は一應引揚げられたのであります。神戸地区の憲兵司令官メノハー准將が神戸地区の最高司令官でありまするが、丁度その日、京都に出張しておりまして神戸におらなかつたので、そのために臨機の処置を執ることができなかつたわけでありまするが、遂に力及ばずして、午後の五時頃になつて、撤回命令に署名をし、撤回されたということになれば、学校閉鎖命令に対して反対をした結果、坐り込み戰術をやつて住居侵入罪に問われた諸君でありまするから、これを拘留する根拠がなくなつたわけでありまして、檢事正も止むを得ず強要に屈して釈放指揮をいたすということになりまして、釈放指揮に署名し、次席檢事が朝鮮人諸君に讓られて、裁判所に行つて手続を済まして釈放を了したのであります。それから帰つて来ますると、それでは本日のこの乱暴に対して一切処罰をせずという一札を入れよということで、これも余儀なくそういう一札を入れて、そうして朝鮮人諸君は引揚げたということに相威つたわけであります。その後、夜に入りましてメノハー准將がお帰りになりまして、この出来事を聞きまして、事態容易ならず、一つのクーデターが行われたものであるとお考えになられまして、第八軍の司令部と御連絡の結果、ここに神戸にたいして非常事態の宣言をなしたということに相成りまして、夜の十一時頃、知事、市長、検事正等の参集を求めまして、直ちに、本日の行動に参加し、暴力を揮つた者はすべて検挙することに助力せよ、こういうことに相成りまして、私がおりまずるとき、千百何名以上でありますが、昨日までに千六百余名の朝鮮人並びに日本人諸君を検挙いたしたのであります。この内六百名程は釈放いたしましたが、千名程は裁判にかける、メノハー准將のお言葉によりますと、重き者はすべて軍事裁判にかけて処断をする、朝鮮に送り返すというつもりである、それから軽き者は言葉の関係その他から、日本裁判権に移讓するからして、裁検事を増員して、敏速果敢に裁判すべきことを要請せられておるのであります。
 尚当事者の責任関係というようなことが問題になり得ると思うのでありまするが、あの当時の状況において、知事の取りましたことは、もとより正しくないことでありまするが、諒とすべきものがある。中央政府は、自治体の首長たる知事に向つて罷免権とか、そういうものを行使する、特別の場合にはそういう権限を持つておりまするが、懲戒をするというような権限はないのでありまするから、これは兵庫縣会、その他の御裁量に俟つ外はないと考えられるのでありまして、検事正の取りました態度につきましても、面白からざるものがあることは勿論でありまするが、如何なる処断を以て臨むべきかということにつきましては、政府として慎重に考慮いたしまして、近くその決定を発表する予定であります。この内、検挙せられたる者の中七名が日本人でありまして、共産党員でありまする神戸市会議員の人を初め、やはり全逓共産党員というような人々に相なつておるのであります。
 次に、二十六日に至りまして、大阪におきましては、前から計画されておりましたことに基づきまして、再びデモンストレーションが行われることになりまして、朝から三カ所に支部大会を開きまして、更にそれが大手前公園に集合いたしまして、約二万名に達したのであります。このときは知事に面会を求めまして、同じことを要求したのでありまするが、三時間程会談をいたしまして、遂に決しなかつた、群衆は殖えるばかりでありまするから、クレーグ大阪地区軍政部長が今一人の中佐を連れて来られまして、知事室に入つて来て、そうして会談打切りを命ぜられたのであります。それに應じなかつたので、直ちにお警察局長に強力を以て解散を命じてよろしいということで、命令を下されましたので、警察局長は部下に命令を下して、ここに強制力を用いて解散をさせるということに相成つたのでありまして、ここに一つの混乱を起しまして代表者の玄某という人がメガホンで解散を命じましたけれども、とても感じない。そこでポンプのホースを持つてきて水をかけて解散を求めたので、余程それで崩れたのでありますが、尚容易に動かないばかりでなく、頻りに石を投げる、或いは「とうがらし」を目つぶしに投げるというようなことが行われましたために、或いは警官が目が見えない間に捕まえられて袋叩きになるというようなことが起りましたために、止むを得ずピストルを用いるようなことに相成つたのでありまして、報告を受けたところによりますと、十六歳の少年に過つて当つて、遂にその夜中に死亡するに至つたというようなことが起こつたのでありまして、これは非常に遺憾に存じておるところでありまするが、併し日本人警官も打撲傷を受けて、三週間以上の治療を要するような者から軽き者まで、三十数名の怪我人を出しておるような次第でありまして、朝鮮人の間にも相当の怪我人が出ておることは想像せられるのでありまするが、それらの点は分り次第報告を求めることに相成つておるのであります。
 今回のこの事件を通しまして、いろいろ教えられるところがあり、如何にせば朝鮮人諸君が我々のよき隣人として、日本國法に従いつつ調和ある生活を営んでくれるようになり得るか、その方策について十分真剣に考えなければならないということ、或いは警察の在り方が今のままでよろしいか、制度の上において、運用の面において、かくのごとき場合に対應するために考慮しなければならんものがあるのではないかというようなことを、いろいろ考えさせられる次第でありまするが、本日はただ御報告に止めまして、それらの点につきましては、他日を期して申上げたいと存ずる次第であります。(拍手)



新字版
昭和23年05月01日 参議院 本会議
[014]
法務総裁(日本社会党) 鈴木義男
 今回神戸、大阪に発生いたしました朝鮮人の騒擾事件は誠に遺憾な事件であります。私は二十七、八の両日に亘り、現地に就いて具さに調査いたして参つた次第であります。これを詳細に申述べまするには長時間を要しまするので、ここには極く簡略に概要を御報告申上げまして、他は御質問等に応じて委員会等において申述べたいと存じます。
 今回の事件は山口、岡山等の場合と同じく、政府の方針に基きまして、大阪府、兵庫県知事が朝鮮人だけで経営し、朝鮮語を以て朝鮮人の子弟だけを教育する学校、初等義務教育でありまするが、その府県内に許して置くことは適当でないというので、すべて日本の教育基本法に則る教育に改めまするために、朝鮮人の学校に閉鎖を命じ、それぞれの校舎の管理をそれぞれの自治体に委ねて朝鮮人も入学せしめる。朝鮮語による教育を欲するならば課外においてそれをなすべきことを要請いたしましたるところ、朝鮮人諸君はこれを不当としてこの命令に服することを拒み、多衆の威力によつて各知事らをしてこの命令を撤回せしめよとして起つたことであります。
 そもそも終戦後朝鮮人は第三国人となつたのでありますから、政府はしばしば声明を発して連合国最高司令官の指令に基き、朝鮮に帰る者は喜んで便宜を供与する。何らかの事情で朝鮮に帰ることを欲せず、又は帰ることのできない者は日本に残ることを許すが、その代り日本国法に遵い、その義務を尽すということを条件として、健全なる生活を営むことを許しておるわけでもあります。然るに我が国に居残つた朝鮮人諸君の中には、戦勝国民と共に第三国人であるという常識が強く、恰も治外決権を持つておるかの如き振舞をする者がありまするのは遺憾なことであります。今回の神戸、大阪の事件もこうした誤つた意識から発生したものではないかと考えられる節があるのであります。私は今回現地において詳細調査の結果、事が意外に計画的、組織的であつたことに驚いたのであります。便宜日の順序を逐うて大坂の事件から御報告いたしまするが、大坂におきましては四月十二日、十五日を期して閉鎖すべき旨を知事から指令いたしたのでありまするが、これに服せず、その撤回を求めるべく運動を開始いたしたのであります。二十三日に朝鮮人教育問題対策人民大会というものを開くことになりまして、一つのデモンストレーションを起すということになつたのでありまするが、朝鮮人諸君の主張は、要するに、独自の民族文化を育成するために独自の学校を持つべきである、又持つ権利を日本国内において持つておるというのでありまして、それについて、この大会を開くについて各方面に宣伝せられました代表的な演説の一つを御紹介いたしまするならば、「朝鮮人学校に対して今般閉鎖命令が発せられたことは、周知の事実である。日本は軍国主義の盛なりし時期において朝鮮を日本領土となし、三十数年間筆舌に尽せない侵略行行為をなした。この度の戦争において日本は敗戦し、祖国朝鮮は独立国家として開放されたのである。このときにおいて、次代の朝鮮を背負う学童の教育機関である朝鮮学校を閉鎖せしめることは、日本帝国主義の再現である。日本政府の反動的なこの措置に対して、我々は飽くまでも対抗して最後の勝利を獲得しなければならない。」、こういつたような主旨の演説をし、或いは文書を廻しまして、そうしてこの大会に多くの朝鮮人諸君を組合したわけであります。
 これは後に至つて明らかになつたことでありまするが、この二十三日の日に、三カ所において先ず支部大会を開いて、そこでそれぞれ五千名、千名ぐらいの人が集合して演説をし気勢を揚げた上で、大手前公園に集結をいたしたのでありまして、二十三日には約七千名の朝鮮人諸君が集合いたしたわけであります。それらのこの会場において演説をされましたものが蒐集されておりまするが、例えば日本共産党の河上貴一君は、「朝鮮人教育問題は、朝鮮人を奴隷化するものであり、働く人民大衆を無知に追い込まんとする支配階級の陰謀である。これが芦田内閣の性格である。この国争に負けたら、更に大なる弾圧が続くであろう。学校閉鎖は、単に教育問題ではなく、民族闘争であり、階級闘争である。この重大意義を認識して、強力に闘争して貫いたい。」又手に入つた一部の中には、革命前夜の組織的態勢を以て臨めというような指令も出ておるやに聞くのであります。
 又生野大会において、日本共産党関西地方委員柳田春夫君が次のごときメッセージを送つておるのであります。「私は日本共産党を代表して、朝鮮の皆様に激励の言葉を申上げる。今回の日本政府が行いたる朝鮮学校閉鎖命令に対しては、日本共産党は、朝鮮の皆様と同じく絶対に反対し、皆さんと一緒に共同闘争を展開しております。朝鮮独立と朝鮮教育自主は絶対死守しなければならなん事項であるということは、朝鮮の皆様は心肝に徹せなくてはならん。朝鮮学校閉鎖命令反対闘争は、朝鮮の皆様の同胞が、下関や岡山や神戸において活発に展開せられ、多数の犠牲者を出しておられるのである。本日皆様が行われる闘争が若し敗北せられた節は、これら多くの犠牲者が浮ぶことができないのであります故、本日の闘争は、皆様が死しても目的達成に奮闘せられなければならん。我が共産党においても、皆様の必死の雄叫びに対し全面的に支持して、共に共同闘争を開始したのである。現に大阪府庁前には、我らの同志が皆様の来るのを待つておるのである。皆さん、本日の闘争は朝鮮人の死活問題であるから、大なる奮闘の程お祈りいたします。」というような、激励の言葉が送られておるのであります。
 その結果とだけは申しませんが、無論この朝鮮人連盟諸君も、大体共産系の人が多いのでありまして、それらの人が激励いたしました結果、府庁前に集結し、その中特に行動隊として知事に面会して、知事をして撤回せしむる役割を務める諸君が約二千名、府庁の中になだれ込んだ次第でありまして、折から知事不在のため、副知事が面会をいたしたのであります。警官が五十名程中におりまして、できるだけ秩序の維持に当たりましたために、神戸におけるごとき不幸なる事態にまでは到達しなかつたのでありまするが、結局会見三時間余にして妥結いたしませんので、副知事は裏の扉から脱出したのであります。その脱出を知りまして、非常な裏切りである。逃したのであるというような仲間割れが生じ、混乱が起こりまして、退散を命じましたけれども聴かないというようなところから、一大混乱が起りまして、警官並びに朝鮮人諸君の間に多少の負傷者ができたというようなことは、誠に遺憾なことであつたのであります。大阪警察当局は約四千八百名の警官を動員いたしまして鎮圧に当りまして、幸いに解散せしめることができたのであります。翌日、翌々日数百名を検挙いたしましたが、事犯の軽微なる者は身柄を釈放いたしまして、起訴、不起訴は後に決定することにいたしまして、比較的重大なる者三十五名だけを拘留いたしたのであります。その中九人が日本人でありまして、大部分が全逓その他の共産党員の諸君であるということになつておるのであります。
 次に二十三日の神戸における状況でありますが、これは神戸におきましては、十日の日に閉鎖命令を出し、十二日を期して明け渡すべきことを求めたのでありまするが、服従しない、そこで神戸市長は、裁判所に仮処分を求めまして、この決定を得ましたので、仮処分の執行のために執達吏を向けたのでありまするが、二宮、稗田、神楽の三小学校に執行を命じたのでありまするが、朝鮮人諸君が立籠つておりまするので、警官の力を借りなければこの執行ができないことを察しまして、二宮、稗田の両小学校には百五十名ずつの警官を従えて行つて、辛うじて執行を終ることができたのであります。神楽小学校の方には二百名の警官を連れて参りましたが、千二百の朝鮮人諸君が立籠つておりまして、どうしても執行することができないで、執行不能で帰つて参つたのであります。
 そこで翌二十四日に、この執行をどうしようか、これ以上執行を強制しようとすれば流血の惨を見なければならない、暫く延期しようか。又二十六日には数万の朝鮮人諸君がデモを敢行するということを申しておりまするので、これをどういうふうに取締つたらよかろうかというような相談をいたすことになりまして、午前九時半から兵庫県庁三階の西南隅の知事室に神戸市長、岸田知事、吉川副知事、或いは古山警察局長、或いは市丸検事正、田辺次席検事というような人々十六名が集まりまして相談をいたすことになつて、始めたのであります。ところが午前の十一時頃になりまして、内部から通報した者があるらしく、これらの人人が今会議をしておるということで、三三五五朝鮮人諸君が県庁の附近に集合し来りまして、数百名に達しまするや、なだれ込んで来まして、知事達の前の廊下に座り込んだわけであります。そうして代表者、行動部隊といわれる人々がドアを蹴破つて入ろうとしたので、形勢の急迫しておることを知りまして、それぞれ連絡をいたしたのでありまするが、救援がなかなか来ない。その中に戸は破られ、更に控室から知事室に入るようになつておりまするが、その控室の壁を打破つて、そうして皆入つて来て、先ず机の上の三台の電話機を叩き落して線を切断し、更にガラスのようなものはめちやくちやに壊す、机、椅子、その他のものもそれぞれ破壊するというような乱暴をいたしまして、然る後談判に移つたわけであります。撤回せよ、しないということで押問答を繰返したわけでありまするが、日本の警察官がどうしても、玄関口をスクラムを組んで朝鮮人が占領しておるために入ることができない。そこで進駐軍のMPのクルツプ大尉が下士官二名を連れて参りまして、そうして知事その他を救援すべく知事室に乗込んで暴れたのであります。退去を命じましたが群衆は聴かない。ピストルを向けて撃つということを申しましたところが、胸をひろげて、撃て、我々はそんなことを怖れて来ておるのではない、命を投げ出して来ておるのであるから、撃つなら撃てというような有様でありまして、僅かの弾丸を以て解決し得べき問題ではないのでありまするから、更に強力なる応援を得べく、クルップ大尉以下は一応引揚げられたのであります。神戸地区の憲兵司令官メノハー准将が神戸地区の最高司令官でありまするが、丁度その日、京都に出張しておりまして神戸におらなかつたので、そのために臨機の処置を執ることができなかつたわけでありまするが、遂に力及ばずして、午後の五時頃になつて、撤回命令に署名をし、撤回されたということになれば、学校閉鎖命令に対して反対をした結果、坐り込み戦術をやつて住居侵入罪に問われた諸君でありまするから、これを拘留する根拠がなくなつたわけでありまして、検事正も止むを得ず強要に屈して釈放指揮をいたすということになりまして、釈放指揮に署名し、次席検事が朝鮮人諸君に譲られて、裁判所に行つて手続を済まして釈放を了したのであります。それから帰つて来ますると、それでは本日のこの乱暴に対して一切処罰をせずという一札を入れよということで、これも余儀なくそういう一札を入れて、そうして朝鮮人諸君は引揚げたということに相威つたわけであります。その後、夜に入りましてメノハー准将がお帰りになりまして、この出来事を聞きまして、事態容易ならず、一つのクーデターが行われたものであるとお考えになられまして、第八軍の司令部と御連絡の結果、ここに神戸にたいして非常事態の宣言をなしたということに相成りまして、夜の十一時頃、知事、市長、検事正等の参集を求めまして、直ちに、本日の行動に参加し、暴力を揮つた者はすべて検挙することに助力せよ、こういうことに相成りまして、私がおりまずるとき、千百何名以上でありますが、昨日までに千六百余名の朝鮮人並びに日本人諸君を検挙いたしたのであります。この内六百名程は釈放いたしましたが、千名程は裁判にかける、メノハー准将のお言葉によりますと、重き者はすべて軍事裁判にかけて処断をする、朝鮮に送り返すというつもりである、それから軽き者は言葉の関係その他から、日本裁判権に移譲するからして、裁検事を増員して、敏速果敢に裁判すべきことを要請せられておるのであります。
 尚当事者の責任関係というようなことが問題になり得ると思うのでありまするが、あの当時の状況において、知事の取りましたことは、もとより正しくないことでありまするが、諒とすべきものがある。中央政府は、自治体の首長たる知事に向つて罷免権とか、そういうものを行使する、特別の場合にはそういう権限を持つておりまするが、懲戒をするというような権限はないのでありまするから、これは兵庫県会、その他の御裁量に俟つ外はないと考えられるのでありまして、検事正の取りました態度につきましても、面白からざるものがあることは勿論でありまするが、如何なる処断を以て臨むべきかということにつきましては、政府として慎重に考慮いたしまして、近くその決定を発表する予定であります。この内、検挙せられたる者の中七名が日本人でありまして、共産党員でありまする神戸市会議員の人を初め、やはり全逓共産党員というような人々に相なつておるのであります。
 次に、二十六日に至りまして、大阪におきましては、前から計画されておりましたことに基づきまして、再びデモンストレーションが行われることになりまして、朝から三カ所に支部大会を開きまして、更にそれが大手前公園に集合いたしまして、約二万名に達したのであります。このときは知事に面会を求めまして、同じことを要求したのでありまするが、三時間程会談をいたしまして、遂に決しなかつた、群衆は殖えるばかりでありまするから、クレーグ大阪地区軍政部長が今一人の中佐を連れて来られまして、知事室に入つて来て、そうして会談打切りを命ぜられたのであります。それに応じなかつたので、直ちにお警察局長に強力を以て解散を命じてよろしいということで、命令を下されましたので、警察局長は部下に命令を下して、ここに強制力を用いて解散をさせるということに相成つたのでありまして、ここに一つの混乱を起しまして代表者の玄某という人がメガホンで解散を命じましたけれども、とても感じない。そこでポンプのホースを持つてきて水をかけて解散を求めたので、余程それで崩れたのでありますが、尚容易に動かないばかりでなく、頻りに石を投げる、或いは「とうがらし」を目つぶしに投げるというようなことが行われましたために、或いは警官が目が見えない間に捕まえられて袋叩きになるというようなことが起りましたために、止むを得ずピストルを用いるようなことに相成つたのでありまして、報告を受けたところによりますと、十六歳の少年に過つて当つて、遂にその夜中に死亡するに至つたというようなことが起こつたのでありまして、これは非常に遺憾に存じておるところでありまするが、併し日本人警官も打撲傷を受けて、三週間以上の治療を要するような者から軽き者まで、三十数名の怪我人を出しておるような次第でありまして、朝鮮人の間にも相当の怪我人が出ておることは想像せられるのでありまするが、それらの点は分り次第報告を求めることに相成つておるのであります。
 今回のこの事件を通しまして、いろいろ教えられるところがあり、如何にせば朝鮮人諸君が我々のよき隣人として、日本国法に従いつつ調和ある生活を営んでくれるようになり得るか、その方策について十分真剣に考えなければならないということ、或いは警察の在り方が今のままでよろしいか、制度の上において、運用の面において、かくのごとき場合に対応するために考慮しなければならんものがあるのではないかというようなことを、いろいろ考えさせられる次第でありまするが、本日はただ御報告に止めまして、それらの点につきましては、他日を期して申上げたいと存ずる次第であります。(拍手)
前略と後略は省略、旧字は新字に変換、誤字・脱字は修正、適宜改行、
漢数字は一部アラビア数字に変換、一部括弧と句点を入れ替えています。
基本的に抜粋して掲載していますので、全文は元サイトでご確認ください。