昭和23年05月01日 衆議院 司法委員会 [007] 法務総裁(日本社会党) 鈴木義男

旧字版(新字版は下)
昭和23年05月01日 衆議院 司法委員会
[007]
法務総裁(日本社会党) 鈴木義男
 今度の朝鮮人騷擾問題に関しましては、私は二十七、八両日に跨つて、現地でつぶさに調査をいたしてまいつたのであります。要するに学校問題の経緯は、すでに御承知のことと存ずるのでありますが、日本におりまする朝鮮人諸君が、第三國人のとして自分たち独自の学校をもちたい、独自の民族文化を育成し、保存し、独立朝鮮國の將來を担うべき國民を養成するのであるから、自分たちの計画に從つて学校を経営し、教科書も編纂し、あるいは教師も選択し、朝鮮語をもつて教育したい、こういうことで今日までまいつてきておるのでありますが、政府は愼重考慮いたしました結果、國内における義務教育は、すべて教育基本法並びに教育基準本等に則りまして、これをいたすことが適当である。そのほかに、もし特殊の教育を施したければ、課外としてやるべきである。そのほかに、もし特殊の教育を施したければ、課外としてやるべきである。こういう建前を堅持いたしまして、その方針に基いて、着々学校を整理していくことを決意いたしたわけであります。その方針に則りまして、各府縣知事がその府縣内の朝鮮人学校に対して閉鎖命令を出したのでありますが、その例にならいまして、大阪におきましては、四月十五日閉鎖命令を出したのであります。また兵庫縣におきましては、四月十日閉鎖命令を出したのであります。しかるに朝鮮人諸君はこれに應せずして、多数の威力を頼んで、知事に迫つてこの命令を撤回せしめようと企てた次第であります。その結果大阪におきましては、二十三日に、朝鮮人教育問題対策人民大会というものを開催いたすことに相なりまして、主として朝鮮人連盟の幹部諸君が発起してやつたのでありますが、尾方面にそれぞれ狩出しのようなことを行いまして、そうして大阪大手前公園、府廳前の廣場において大会を開き、もつともその前に朝から三回も大会を別に開きまして、それぞれ結集した上で、それがさらに大手前公園に集結するという段取りになつておつたのであります。正午ごろ約七千の朝鮮人諸君が大手前公園に集まり、その中から少数の代表者が出て、そうして府知事に面会して撤回を迫るということになつておつたのであります。その趣旨は、民族独自の教育施設をもつべきであるということはもちろんでありますが、これらの人々を集めますために、あるいは集まつた後会場において、それぞれ述べておる演説意見等によつて、ほぼ察知することができるのでありますが、それは大体こういうものであります。朝鮮人学校に対して今般閉鎖命令が発せられたことは、周知の事実である。日本は軍國主義の盛んなりし時期において、朝鮮を日本の領土となし、三十数年間筆舌に盡せない侵略行為をなした。このたびの戰争において日本は敗戰し、祖國朝鮮は独立國家として解放されたのである。このときにおいて、次代の朝鮮を背負う学童の教育機関である朝鮮学校を閉鎖せしむることは、日本帝國主義の再現である。日本政府の反動的なこの措置に対して、われわれはあくまでも対抗して、最後の勝利を獲得しなければならない。この意味において、本日のデモ行進には全員参加することを希望する、というような趣旨であるのであります。
 なお多少背景を明らかにいたしますために、一、二の会場において行われました演説等を御紹介いたしますならば、生野支部大会におきまして、大手前に來る前にやつておつた支部の大会の席上で、日本共産党関西地方委員柳田春夫君から、次のようなメツセージを発表したのであります。「私は日本共産党を代表して、朝鮮の皆樣に激励の言葉を申し上げる。今回の日本政府が行いたる朝鮮人学閉鎖命令に対しては、日本共産党は、朝鮮の皆さんと同じく絶対反対し、皆樣と一緒に共同闘爭を展開しております。朝鮮独立と朝鮮教育自主は、絶対死守しなければならない事項であるということは、朝鮮の皆樣は心肝に徹しなくてはらならい。朝鮮人学校閉鎖命令反対闘爭は、朝鮮皆樣の同胞が、下関や、岡山や、神戸において活発に展開せられ、多数の犠牲者を出しておられるのである。本日皆樣が行われる闘爭が、もし敗北せられた節は、これら多くの犠性者が浮ぶことができないのでありますゆえ、本日の闘爭は、皆樣が死しても目的達成に奮闘せられなければならぬ。わが共産党においても、皆樣の必死の雄叫びに対し全面的に支持して、ともに共同闘爭を開始したのである。現に大阪府廳内には、われわれの同志が、皆樣の來るのを待つているのである。皆さん、本日の闘爭は、朝鮮人の死活問題であるから、大なる奮闘のほどお祈りいたします。」こういうメツセージを送り、あるいは大手前公園におきましては、朝鮮人連盟の幹部諸君が、代る代る演説をしたことはもちろんでありますが、あるいは岡山の代表という婦人でありますが、岡山では正々堂々と闘たて、遂に知事を屈服せしめて勝つた。しかるにこちらではまだ解決していないというのは残念である。大いにやつてもらいたいというようなことを演説し、あるいは日本共産党の川上貫一君は、朝鮮人教育問題は、朝鮮を奴隷化するものであり、働く人民大衆を無知に追いこまんとする支配階級の隠謀であり、これが芦田内閣の性格である。この闘爭に負けたら、さらに大なる彈圧が続くであろう。学校閉鎖は單に教育問題ではなく、民族闘爭であり、階級闘爭である、この重大意義を認識して強力に闘爭してもらいたいというような、趣旨は大同小異でありますが、代る代る激励の演説をいたしておるのであります。そこで午後一時ごろ二千人ほどの群集がどつと府廳の中になだれこみまして、五十人ほどの警官が中を護つておつたのでありますが、結局知事室に殺到をする。そして代表的な行動部隊というような人々が、むりに府知事に面会を求めました。府知事が留守でありましたために、副知事が面会をいたしたのでありますが、副知事の室で会談数時間に及んだわけであります。結局同じような問答が繰返され、議歩するわけにはいかぬのでありますから、そこで果しがないと見まして、副知事は四時半ごろ裏のドアから脱出をいたし、府廳外に出てしまつたのでありもす。そのことがわかりますや、なぜ副知事を逃したか、裏切つたというようなことで騒動が起りまして、それが口々に傳わりまして、一大混乱に陥つたそうであります。そこで警官が出動いたしまして、そのころまでには約四千五百ほどの警官が府廳の周囲をとり巻いたのでありますが、多少のけが人を出しながら、さいわいに解散させることができたのであります。しかし相当乱暴狼藉をいたしまして、器物を破壊し、ドアーもけ破るというようなことがありましたので、あまり暴行をいたしましたような者は檢挙いたしまして、数百名檢挙いたしたのでありますが、事案の軽い者は身柄を釈放いたしまして、起訴、不起訴は追つて決定することといたし、おもなる者三十五名だけは勾留いたしておるのであります。そのうち九名は日本人でありまして、おおむね全逓の幹部並びに共産党員の諸君であります。
 それから二十四日の神戸の問題でありますが、神戸では四月十日に閉鎖命令を出しまして、十二日を限り明け渡すべきことを求めたのでありますが、應じない。かえつて四月十五日には数百名の朝鮮人諸君が縣廳に押し寄せまして、そのうち七十名は副知事室にがんばりまして、面会を強要してやまなかつたのであります。結局徹夜で室にがんばつたというような状況であつたのであります。そこでいわゆる住居侵入であり、求められて退去せざるものであるということで、その数百名のうちから七十名を檢挙いたしまして、六十五名を勾留に処したのであります。毎日釈放運動が裁判所、檢察廳に向つて行われたことは、申すまでもないのであります。そこで閉鎖命令を実行に移すべく、神戸市長は仮処分を裁判所に申請をいたしまして、決定がありましたので、これを執行することになりまして、執達吏が二宮、稗田、神樂の三校にまいることになつたのであります。しかしいずれも朝鮮人が占拠いたしておりまして、たやすくは執行することができないであろうということから、二宮、稗田の両小学校には百五十名ずつの警官を連れていつて辛うじて執行することができたのであります。神樂小学校は千二百名の朝鮮人が占拠いたしておりまして、いろいろ努力いたしましたが、ついに執行不能に終つたのであります。そこでこれは何とかしなければならぬ、その対策を協議しなければならぬということになりまして、翌四月二十四日午前九時半から兵庫縣廳三階西南隅の知事室に、岸田知事、吉川副知事以下縣廳側から数名、それから小寺市長、警察長その他数名、それから渉外連絡局長市丸檢事正、次席檢事というような人合計十六名が集まつて、この仮処分をさらに強行的にやるべきであるか、しばらく延期すべきであるかというような問題と、さらに二十六日に予定されておりました数万人のデモンストレーシヨンに対して、どういう対策をとるべきでるかということについて協議をいたしておつたのでありますが、内部に通報する者があつたもののごとく、これらの人々がこの部屋に集まつておるということが朝鮮人側に知れまして、十時半ごろから二、三人あるいは五、六人ずつ、ぽつぽつと縣廳に周囲に集まつてまいりまして、十一時ごろ数百人に達しまするや、一挙になだれこんでまいりまして、知事室の前に陣取つて大多数はそこに坐りこむ、それから少数の人々は強引に中に入れろということで、怒号するというようなことに相なつたのであります。しばらく戸を閉さして中から押おておつたそうでありますが、遂に体当りで戸を蹴破り、さらに知事の控室から本室の方に壁でさえぎられておりますが、その壁は比較的弱くできておるために、これを破りまして、そうしてみな壁をくぐつてはいつてくるというようなことに相なりまして、知事室を数十人の朝鮮人諸君が占拠してしまつたのであります。そうしてまず卓上の電話三台をたたき落して電話線を切りますし、机の上のガラスは打破る。あるいはその他の器物、ガラス戸、机、椅子すべてを相当こわしまして、しかる後談判に着手したのであります。同じような問答が繰返されまして、閉鎖命令を撤回せよ、撤回できないというようなことであつたのでありますが、午後の二時ごろこの事態を聞きまして、日本の警察官は外にみなおりますけれども、スクラムを組んで朝鮮人が門から通路全体に充滿しておりまするために、どうしてもはいれないのであります。袋のねずみのように行き詰りのような郡屋でありまして、窓を開けて椅子か何かで街上に降りるよりほかに脱出する途のない部屋でありますから、そこで危險であるということを感じまして、進駐軍の憲兵隊クルツプ氏が、下士官二名を連れて、そうして救援すべく、この朝鮮人の列をわけてはいつていつて知事室に到達したのであります、それで朝鮮人諸君に退去を命じたのでありますが、きかない。きかないので、ピストルを向けたそうでありますが、朝鮮人諸君はみな胸を拡げて、撃て、われわれは命などを惜しんでここに來ておるのではない、撃つなら撃て、こう言つて慫慂するというような態度でありましたがために、クルツプ大尉も少数の彈丸で解決し得る問題ではない。もつと強力なるものを動かすほかはないということから、一應その場を引揚げまして、そうして他の対策に出でようとしたようであります。神戸における地区の最高憲兵司令官はメノハー准將でありまして、ちようどこの日京都に出張いたしておりまして留守であつたのであります。この司令官の指図を仰ぐことができなかつた、それが一つは事態を不幸ならしめたのでありますが、対談数時間に及んで、どうしても知事を殺せ、何をぐずぐずしているかというような叫び喧々囂々たるものでありまして、たえず街上においても、廊下においても騒ぎが起つている。それでこのまま放置するならば、いかなることになるかわからぬということから、遂に吉田知事は意を決して撤回するということを宣言したそうでありまして、それならそれを書いて渡してもらいたいということから、書いて渡す。そういると、匂留せられいてる六十五名は、この閉鎖命令に対して抵抗したために捕えられたのであるから、閉鎖命令が撤回された伊上釈放せらるべきものであるという主張をいたしまして、一應知事が撤回いたしました以上は、根拠を失うことになるわけでありますから、やむを得ず檢事正も釈放指揮に署名をしたということであります。次席檢事がこの指揮を持つて裁判所に朝鮮人に護られて参りまして、そして釈放を完了して帰つて來た。そうすると、今ここでやつて乱暴に対しては一切処罰をしないという一札を付せ、こういうことになりまして、それも渡すのやむなきに至つた。そこで朝鮮人諸君は一斉に引揚げて行つた。こういうような経過になつているのであります。そこで引揚げたのが五時ころでありまして、その後一時間ほとしてメノハー准將はお帰りになつた。それでこの経過を聽かれまして、これは容易ならぬことである。地方政権に対する一つのクーデターであるという御見解から、第八軍司令部に連絡せられまして、ただちに非常事態の宣言を行つた。本日この暴行その他に参加いたしました者、全部これを檢挙する、こういう方針を決せられまして、夜の十一時ころ知事、市長、檢事正等を招集せられまして、非常事態を宣言するとともに、これらの檢挙について協力すべきことを命ぜられたのであります。その夜半から当日参加したと目すべき人々は、続々檢挙せられることになつたのでありまして、私の参りましたとき千百余名が檢挙せられておりましたが、その後の報告によりますと、千六百余名に及んだようであります。比較的軽い者六百名は釈放いたしまして、千余名が留置せられているわけであります。メノハー准將が私に語られたところによりますと、大体重き者は軍事裁判で審議する、そして処罰した上で朝鮮に送り還すというような御方針のようであります。軽き者は言葉その他の關係から、日本の裁判権に移讓するゆえに、日本の裁判所は、檢察廳も人員を増加して、敏速果敢にこの裁判を処理すべきことを要請せられているのであります。これが神戸の二十四日の騒擾の顛末でありまして、これもまた日本人が七名参加いたしておりまして、共産党員が主であります。神戸の市会議員の方も、今ちよつと名前を失しましたが、これに参加いたしておられたわけであります。
 それから二十六日の二回目の大阪における騒擾でありますが、これは第一回で成功しなかつたからして、さらに二十六日を期して二万の大衆を動員して、そうしてその圧力のもとにぜひ命令を撤回させよう、こういうようなことで、戸別訪問のようなことをし、あるいは米の供出をしお金を出させる。これは他府縣から應援に來たところの人の食糧とし、旅費とするもののように思われるのでありますが、そうして着々計画を進めておつたようであります。情報によりますと、前の晩、二十五日の晩に朝鮮人連盟本部において、明日の大会のやり方について議論がありまして、あくまで合法的に穏健にやるべしと言う者と、死を賭しても闘うべし、警察または進駐軍等が彈圧を加えた場合には、死力を盡してこれに抵抗して闘つて勝つという態度でいかなければならぬという議論が二つにわかれまして、夜を徹して議論が交換されたが、結局結論を得るに至らずして、大会に臨んだというふうに傳えられているのであります。この日も朝から三箇所に支部大会を開きまして、そしてその支部大会でそれぞれ人員を整えた上、正午ごろまでに大手前公園、縣廳前に集合いたしたのであります。集合したる人員約二万名であります。そうして代表者を立てまして、このときは代表者五名に限り面会するという條件がついておりましために、知事室の外までは二千人くらいの人が皆縣廳内にはいつてきたのでありますが、部屋の中には五名だけ入れまして、そうしてしきりに交渉を継続いたしたのであります。結局同じことの問答でありますから、午後一時くらいから午後四時ごろまでに及んで解決ができないで、事態を憂慮いたしておりました大阪軍政部長クレーグ大佐は、今一人の中佐を伴われて知事室にはいつてこられまして、はてしがないから、会談はこれで打切るべしということを命ぜられたのであります。同時にこの群集を平穏裡の解鶴させよ。こういうことを命ぜられまして、警察局長に命じて解散の手続をとらせたのであります。そのために代表者玄何がしという人に、メガホンをもつて警察局長の命令を公園の群集に傳えさせたのでありますが、容易に動く形勢が見えないで、かつて騒ぎが大きくなる一方制ありましたので、余儀なくクレーグ大佐等の了解もありまして、強制手段を用いてよろしい。こういうことでありましたために、ポンプを持出してホースで水をかけるということで、大部分の群衆を散らしたのでありますが、なお青年朝鮮連盟の諸君などは、水に漏れましても、かえつて屈せずジグザグ行進を継続し、縣廳の中にはいつてこようとするような氣勢を示しました。あるいは石を投げて昔官に挑む、あるいは卵の中に唐辛子を入れてこれを目潰しにして、眼が見えなくなつたときに袋たたきにするというようなことが行われましたために、余稿なくピストル等をもつて威嚇するというようなことに相なりまして、ピストルも若干発射いたしたそうであります。その犠牲であるかと存じますが、十六才の少年がピストルに撃たれてけがをして、その晩日赤病院かで遅く死亡するにいたつたということが傳えられておるのであります。その死因等については、解剖に附して詳細にあとで報告するということになつておるのでありますが、その点は未だ報告を受けておらないのであります。警官の方でも打撲傷三週間以上の治療を要するような者を初めてとして、三十数名のけが人を出しておるのであります。しかしさいわいにしてそういう乱闘がありましたけれども、結局解散せしめることに成功いたしたのでありまして、神戸のような撤回というような事態に到達せずして済んだことは、不幸中の幸いであるわけであります。これが神戸、大阪における当時の実情でありまして、これについていろいろ感想のようなものもありますし、これに基づいていろいろ考えるべきことがあるのでありますが、それらは別に申し上げることとしまして、経過の概要は以上の通りであるということを申し上げて終る次第であります。



新字版
昭和23年05月01日 衆議院 司法委員会
[007]
法務総裁(日本社会党) 鈴木義男
 今度の朝鮮人騒擾問題に関しましては、私は二十七、八両日に跨つて、現地でつぶさに調査をいたしてまいつたのであります。要するに学校問題の経緯は、すでに御承知のことと存ずるのでありますが、日本におりまする朝鮮人諸君が、第三国人のとして自分たち独自の学校をもちたい、独自の民族文化を育成し、保存し、独立朝鮮国の将来を担うべき国民を養成するのであるから、自分たちの計画に従つて学校を経営し、教科書も編纂し、あるいは教師も選択し、朝鮮語をもつて教育したい、こういうことで今日までまいつてきておるのでありますが、政府は慎重考慮いたしました結果、国内における義務教育は、すべて教育基本法並びに教育基準本等に則りまして、これをいたすことが適当である。そのほかに、もし特殊の教育を施したければ、課外としてやるべきである。そのほかに、もし特殊の教育を施したければ、課外としてやるべきである。こういう建前を堅持いたしまして、その方針に基いて、着々学校を整理していくことを決意いたしたわけであります。その方針に則りまして、各府県知事がその府県内の朝鮮人学校に対して閉鎖命令を出したのでありますが、その例にならいまして、大阪におきましては、四月十五日閉鎖命令を出したのであります。また兵庫県におきましては、四月十日閉鎖命令を出したのであります。しかるに朝鮮人諸君はこれに応せずして、多数の威力を頼んで、知事に迫つてこの命令を撤回せしめようと企てた次第であります。その結果大阪におきましては、二十三日に、朝鮮人教育問題対策人民大会というものを開催いたすことに相なりまして、主として朝鮮人連盟の幹部諸君が発起してやつたのでありますが、尾方面にそれぞれ狩出しのようなことを行いまして、そうして大阪大手前公園、府庁前の広場において大会を開き、もつともその前に朝から三回も大会を別に開きまして、それぞれ結集した上で、それがさらに大手前公園に集結するという段取りになつておつたのであります。正午ごろ約七千の朝鮮人諸君が大手前公園に集まり、その中から少数の代表者が出て、そうして府知事に面会して撤回を迫るということになつておつたのであります。その趣旨は、民族独自の教育施設をもつべきであるということはもちろんでありますが、これらの人々を集めますために、あるいは集まつた後会場において、それぞれ述べておる演説意見等によつて、ほぼ察知することができるのでありますが、それは大体こういうものであります。朝鮮人学校に対して今般閉鎖命令が発せられたことは、周知の事実である。日本は軍国主義の盛んなりし時期において、朝鮮を日本の領土となし、三十数年間筆舌に尽せない侵略行為をなした。このたびの戦争において日本は敗戦し、祖国朝鮮は独立国家として解放されたのである。このときにおいて、次代の朝鮮を背負う学童の教育機関である朝鮮学校を閉鎖せしむることは、日本帝国主義の再現である。日本政府の反動的なこの措置に対して、われわれはあくまでも対抗して、最後の勝利を獲得しなければならない。この意味において、本日のデモ行進には全員参加することを希望する、というような趣旨であるのであります。
 なお多少背景を明らかにいたしますために、一、二の会場において行われました演説等を御紹介いたしますならば、生野支部大会におきまして、大手前に来る前にやつておつた支部の大会の席上で、日本共産党関西地方委員柳田春夫君から、次のようなメツセージを発表したのであります。「私は日本共産党を代表して、朝鮮の皆様に激励の言葉を申し上げる。今回の日本政府が行いたる朝鮮人学閉鎖命令に対しては、日本共産党は、朝鮮の皆さんと同じく絶対反対し、皆様と一緒に共同闘争を展開しております。朝鮮独立と朝鮮教育自主は、絶対死守しなければならない事項であるということは、朝鮮の皆様は心肝に徹しなくてはらならい。朝鮮人学校閉鎖命令反対闘争は、朝鮮皆様の同胞が、下関や、岡山や、神戸において活発に展開せられ、多数の犠牲者を出しておられるのである。本日皆様が行われる闘争が、もし敗北せられた節は、これら多くの犠性者が浮ぶことができないのでありますゆえ、本日の闘争は、皆様が死しても目的達成に奮闘せられなければならぬ。わが共産党においても、皆様の必死の雄叫びに対し全面的に支持して、ともに共同闘争を開始したのである。現に大阪府庁内には、われわれの同志が、皆様の来るのを待つているのである。皆さん、本日の闘争は、朝鮮人の死活問題であるから、大なる奮闘のほどお祈りいたします。」こういうメツセージを送り、あるいは大手前公園におきましては、朝鮮人連盟の幹部諸君が、代る代る演説をしたことはもちろんでありますが、あるいは岡山の代表という婦人でありますが、岡山では正々堂々と闘たて、遂に知事を屈服せしめて勝つた。しかるにこちらではまだ解決していないというのは残念である。大いにやつてもらいたいというようなことを演説し、あるいは日本共産党の川上貫一君は、朝鮮人教育問題は、朝鮮を奴隷化するものであり、働く人民大衆を無知に追いこまんとする支配階級の隠謀であり、これが芦田内閣の性格である。この闘争に負けたら、さらに大なる弾圧が続くであろう。学校閉鎖は単に教育問題ではなく、民族闘争であり、階級闘争である、この重大意義を認識して強力に闘争してもらいたいというような、趣旨は大同小異でありますが、代る代る激励の演説をいたしておるのであります。そこで午後一時ごろ二千人ほどの群集がどつと府庁の中になだれこみまして、五十人ほどの警官が中を護つておつたのでありますが、結局知事室に殺到をする。そして代表的な行動部隊というような人々が、むりに府知事に面会を求めました。府知事が留守でありましたために、副知事が面会をいたしたのでありますが、副知事の室で会談数時間に及んだわけであります。結局同じような問答が繰返され、議歩するわけにはいかぬのでありますから、そこで果しがないと見まして、副知事は四時半ごろ裏のドアから脱出をいたし、府庁外に出てしまつたのでありもす。そのことがわかりますや、なぜ副知事を逃したか、裏切つたというようなことで騒動が起りまして、それが口々に伝わりまして、一大混乱に陥つたそうであります。そこで警官が出動いたしまして、そのころまでには約四千五百ほどの警官が府庁の周囲をとり巻いたのでありますが、多少のけが人を出しながら、さいわいに解散させることができたのであります。しかし相当乱暴狼藉をいたしまして、器物を破壊し、ドアーもけ破るというようなことがありましたので、あまり暴行をいたしましたような者は検挙いたしまして、数百名検挙いたしたのでありますが、事案の軽い者は身柄を釈放いたしまして、起訴、不起訴は追つて決定することといたし、おもなる者三十五名だけは勾留いたしておるのであります。そのうち九名は日本人でありまして、おおむね全逓の幹部並びに共産党員の諸君であります。
 それから二十四日の神戸の問題でありますが、神戸では四月十日に閉鎖命令を出しまして、十二日を限り明け渡すべきことを求めたのでありますが、応じない。かえつて四月十五日には数百名の朝鮮人諸君が県庁に押し寄せまして、そのうち七十名は副知事室にがんばりまして、面会を強要してやまなかつたのであります。結局徹夜で室にがんばつたというような状況であつたのであります。そこでいわゆる住居侵入であり、求められて退去せざるものであるということで、その数百名のうちから七十名を検挙いたしまして、六十五名を勾留に処したのであります。毎日釈放運動が裁判所、検察庁に向つて行われたことは、申すまでもないのであります。そこで閉鎖命令を実行に移すべく、神戸市長は仮処分を裁判所に申請をいたしまして、決定がありましたので、これを執行することになりまして、執達吏が二宮、稗田、神楽の三校にまいることになつたのであります。しかしいずれも朝鮮人が占拠いたしておりまして、たやすくは執行することができないであろうということから、二宮、稗田の両小学校には百五十名ずつの警官を連れていつて辛うじて執行することができたのであります。神楽小学校は千二百名の朝鮮人が占拠いたしておりまして、いろいろ努力いたしましたが、ついに執行不能に終つたのであります。そこでこれは何とかしなければならぬ、その対策を協議しなければならぬということになりまして、翌四月二十四日午前九時半から兵庫県庁三階西南隅の知事室に、岸田知事、吉川副知事以下県庁側から数名、それから小寺市長、警察長その他数名、それから渉外連絡局長市丸検事正、次席検事というような人合計十六名が集まつて、この仮処分をさらに強行的にやるべきであるか、しばらく延期すべきであるかというような問題と、さらに二十六日に予定されておりました数万人のデモンストレーシヨンに対して、どういう対策をとるべきでるかということについて協議をいたしておつたのでありますが、内部に通報する者があつたもののごとく、これらの人々がこの部屋に集まつておるということが朝鮮人側に知れまして、十時半ごろから二、三人あるいは五、六人ずつ、ぽつぽつと県庁に周囲に集まつてまいりまして、十一時ごろ数百人に達しまするや、一挙になだれこんでまいりまして、知事室の前に陣取つて大多数はそこに坐りこむ、それから少数の人々は強引に中に入れろということで、怒号するというようなことに相なつたのであります。しばらく戸を閉さして中から押おておつたそうでありますが、遂に体当りで戸を蹴破り、さらに知事の控室から本室の方に壁でさえぎられておりますが、その壁は比較的弱くできておるために、これを破りまして、そうしてみな壁をくぐつてはいつてくるというようなことに相なりまして、知事室を数十人の朝鮮人諸君が占拠してしまつたのであります。そうしてまず卓上の電話三台をたたき落して電話線を切りますし、机の上のガラスは打破る。あるいはその他の器物、ガラス戸、机、椅子すべてを相当こわしまして、しかる後談判に着手したのであります。同じような問答が繰返されまして、閉鎖命令を撤回せよ、撤回できないというようなことであつたのでありますが、午後の二時ごろこの事態を聞きまして、日本の警察官は外にみなおりますけれども、スクラムを組んで朝鮮人が門から通路全体に充満しておりまするために、どうしてもはいれないのであります。袋のねずみのように行き詰りのような郡屋でありまして、窓を開けて椅子か何かで街上に降りるよりほかに脱出する途のない部屋でありますから、そこで危険であるということを感じまして、進駐軍の憲兵隊クルツプ氏が、下士官二名を連れて、そうして救援すべく、この朝鮮人の列をわけてはいつていつて知事室に到達したのであります、それで朝鮮人諸君に退去を命じたのでありますが、きかない。きかないので、ピストルを向けたそうでありますが、朝鮮人諸君はみな胸を拡げて、撃て、われわれは命などを惜しんでここに来ておるのではない、撃つなら撃て、こう言つて慫慂するというような態度でありましたがために、クルツプ大尉も少数の弾丸で解決し得る問題ではない。もつと強力なるものを動かすほかはないということから、一応その場を引揚げまして、そうして他の対策に出でようとしたようであります。神戸における地区の最高憲兵司令官はメノハー准将でありまして、ちようどこの日京都に出張いたしておりまして留守であつたのであります。この司令官の指図を仰ぐことができなかつた、それが一つは事態を不幸ならしめたのでありますが、対談数時間に及んで、どうしても知事を殺せ、何をぐずぐずしているかというような叫び喧々囂々たるものでありまして、たえず街上においても、廊下においても騒ぎが起つている。それでこのまま放置するならば、いかなることになるかわからぬということから、遂に吉田知事は意を決して撤回するということを宣言したそうでありまして、それならそれを書いて渡してもらいたいということから、書いて渡す。そういると、匂留せられいてる六十五名は、この閉鎖命令に対して抵抗したために捕えられたのであるから、閉鎖命令が撤回された伊上釈放せらるべきものであるという主張をいたしまして、一応知事が撤回いたしました以上は、根拠を失うことになるわけでありますから、やむを得ず検事正も釈放指揮に署名をしたということであります。次席検事がこの指揮を持つて裁判所に朝鮮人に護られて参りまして、そして釈放を完了して帰つて来た。そうすると、今ここでやつて乱暴に対しては一切処罰をしないという一札を付せ、こういうことになりまして、それも渡すのやむなきに至つた。そこで朝鮮人諸君は一斉に引揚げて行つた。こういうような経過になつているのであります。そこで引揚げたのが五時ころでありまして、その後一時間ほとしてメノハー准将はお帰りになつた。それでこの経過を聴かれまして、これは容易ならぬことである。地方政権に対する一つのクーデターであるという御見解から、第八軍司令部に連絡せられまして、ただちに非常事態の宣言を行つた。本日この暴行その他に参加いたしました者、全部これを検挙する、こういう方針を決せられまして、夜の十一時ころ知事、市長、検事正等を招集せられまして、非常事態を宣言するとともに、これらの検挙について協力すべきことを命ぜられたのであります。その夜半から当日参加したと目すべき人々は、続々検挙せられることになつたのでありまして、私の参りましたとき千百余名が検挙せられておりましたが、その後の報告によりますと、千六百余名に及んだようであります。比較的軽い者六百名は釈放いたしまして、千余名が留置せられているわけであります。メノハー准将が私に語られたところによりますと、大体重き者は軍事裁判で審議する、そして処罰した上で朝鮮に送り還すというような御方針のようであります。軽き者は言葉その他の関係から、日本の裁判権に移譲するゆえに、日本の裁判所は、検察庁も人員を増加して、敏速果敢にこの裁判を処理すべきことを要請せられているのであります。これが神戸の二十四日の騒擾の顛末でありまして、これもまた日本人が七名参加いたしておりまして、共産党員が主であります。神戸の市会議員の方も、今ちよつと名前を失しましたが、これに参加いたしておられたわけであります。
 それから二十六日の二回目の大阪における騒擾でありますが、これは第一回で成功しなかつたからして、さらに二十六日を期して二万の大衆を動員して、そうしてその圧力のもとにぜひ命令を撤回させよう、こういうようなことで、戸別訪問のようなことをし、あるいは米の供出をしお金を出させる。これは他府県から応援に来たところの人の食糧とし、旅費とするもののように思われるのでありますが、そうして着々計画を進めておつたようであります。情報によりますと、前の晩、二十五日の晩に朝鮮人連盟本部において、明日の大会のやり方について議論がありまして、あくまで合法的に穏健にやるべしと言う者と、死を賭しても闘うべし、警察または進駐軍等が弾圧を加えた場合には、死力を尽してこれに抵抗して闘つて勝つという態度でいかなければならぬという議論が二つにわかれまして、夜を徹して議論が交換されたが、結局結論を得るに至らずして、大会に臨んだというふうに伝えられているのであります。この日も朝から三箇所に支部大会を開きまして、そしてその支部大会でそれぞれ人員を整えた上、正午ごろまでに大手前公園、県庁前に集合いたしたのであります。集合したる人員約二万名であります。そうして代表者を立てまして、このときは代表者五名に限り面会するという条件がついておりましために、知事室の外までは二千人くらいの人が皆県庁内にはいつてきたのでありますが、部屋の中には五名だけ入れまして、そうしてしきりに交渉を継続いたしたのであります。結局同じことの問答でありますから、午後一時くらいから午後四時ごろまでに及んで解決ができないで、事態を憂慮いたしておりました大阪軍政部長クレーグ大佐は、今一人の中佐を伴われて知事室にはいつてこられまして、はてしがないから、会談はこれで打切るべしということを命ぜられたのであります。同時にこの群集を平穏裡の解鶴させよ。こういうことを命ぜられまして、警察局長に命じて解散の手続をとらせたのであります。そのために代表者玄何がしという人に、メガホンをもつて警察局長の命令を公園の群集に伝えさせたのでありますが、容易に動く形勢が見えないで、かつて騒ぎが大きくなる一方制ありましたので、余儀なくクレーグ大佐等の了解もありまして、強制手段を用いてよろしい。こういうことでありましたために、ポンプを持出してホースで水をかけるということで、大部分の群衆を散らしたのでありますが、なお青年朝鮮連盟の諸君などは、水に漏れましても、かえつて屈せずジグザグ行進を継続し、県庁の中にはいつてこようとするような気勢を示しました。あるいは石を投げて昔官に挑む、あるいは卵の中に唐辛子を入れてこれを目潰しにして、眼が見えなくなつたときに袋たたきにするというようなことが行われましたために、余稿なくピストル等をもつて威嚇するというようなことに相なりまして、ピストルも若干発射いたしたそうであります。その犠牲であるかと存じますが、十六才の少年がピストルに撃たれてけがをして、その晩日赤病院かで遅く死亡するにいたつたということが伝えられておるのであります。その死因等については、解剖に附して詳細にあとで報告するということになつておるのでありますが、その点は未だ報告を受けておらないのであります。警官の方でも打撲傷三週間以上の治療を要するような者を初めてとして、三十数名のけが人を出しておるのであります。しかしさいわいにしてそういう乱闘がありましたけれども、結局解散せしめることに成功いたしたのでありまして、神戸のような撤回というような事態に到達せずして済んだことは、不幸中の幸いであるわけであります。これが神戸、大阪における当時の実情でありまして、これについていろいろ感想のようなものもありますし、これに基づいていろいろ考えるべきことがあるのでありますが、それらは別に申し上げることとしまして、経過の概要は以上の通りであるということを申し上げて終る次第であります。
前略と後略は省略、旧字は新字に変換、誤字・脱字は修正、適宜改行、
漢数字は一部アラビア数字に変換、一部括弧と句点を入れ替えています。
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