昭和27年05月07日 衆議院 地方行政委員会 [008] 参考人(警視総監) 田中榮一

旧字版(新字版は下)
昭和27年05月07日 衆議院 地方行政委員会
[008]
参考人(警視総監) 田中榮一
 五月一日皇居前広場におきましてメーデーが終了いたしましてから、きわめて遺憾なことでありまするが、一部の尖鋭分子が皇居前広場に乱入いたしまして、この間これを制止せんとする警察官との間に乱闘事件が展開されまして、双方の間に相当多数の負傷者を出し、あまつさえ外国人所有の自動車に暴行が加えられ、また何ら関係のない駐留軍の兵隊等に対して、暴徒が暴行を加えたというようなことがありまして、まことに遺憾にたえない次第でございます。この間の点につきましてはいずれ後ほど私から申し上げまするが、メーデー開催までの経過につきまして、一応御説明申し上げたいと思います。
 今回のメーデーの開催は総評の島上善五郎氏が実行委員長になりまして、総評といたしましては統一メーデーをすることに決定をいたしまして、メーデー実施の方法につきまして、いろいろ治安上関係がありまするので、警視庁当局とも再三再四連絡をとりまして、総評側の意見も十分に聴取いたしまするし、また警察側の意見も総評側において十分聴取してもらい、双方意見の一致したところで、今回のメーデー実行案なるものができたのであります。総評側としましては、皇居前広場は目下使用につきましては裁判上の手続によつて係争中でありまするので、とりあえず神宮外苑をメーデー大会の場所とすることに方針が決定をいたしまして、そして神宮外苑において大会を開催する。大会が終了いたしましたならば、全体の参加人員を適当に五つに区分いたしまして、メーデーの行進を実施させるということにきまつたのであります。一班は神宮外苑から出発して新宿駅前において解散をする。他の一つは渋谷の道玄坂の繁華街を行進をして東急の駅前広場において解散をする。それからいま一班は外苑を出まして外堀を通つて九段坂を通り、小石川の後楽園の球場付近の広場において解散をする。これが第三班であります。
 それから第四班としましては、神宮外苑から溜池、虎ノ門、田村町に出まして、日比谷公園において解散する。これを南部班と称しております。それから他の一班は中部班と称しまして、赤坂見付から永田町に出て、永田町から国会の周辺を迂回して霞ケ関に出て霞ケ関から日比谷公園内に入り、日比谷公園において解散をする。大体五つの班にわかれて行進を始めるということになつたのであります。
 警視庁といたしましては、当初これらのメーデーを利用いたしまして、相当過激分子が集団的な暴行をなすであろうというような情報も耳にいたしておりましたので、但しその方法がいかなる方法でやるかということにつきましては、いろいろ予想を立てまして、メーデー実施に要する警戒要員といたしましては、約四千百名ほどを配置いたしまして、メーデーの大会の会場、それからメーデー行進の沿道並びに解散の場所その他を十分に警戒をいたし、またメーデー散会後にいろいろまた不祥事件の発生するおそれもありまするので、こうした場合を予想いたしまして、全七十三の警察署員にほとんど全員を待機させまして、各警察署管内はその署の署員をもつて自衛態勢をとらせるという方針をとりまして、警察から署員を本部の方に引上げて他へ転用することを、なるべく避ける方針をとつたのであります。それからさらに日比谷の解散の場所等は相当混雑々予想し、またいろいろ混乱するおそれもありますので、日比谷の解散地におきましては、相当厳重なる警戒陣をしきまして、その付近一帯を警戒せしめたのであります。それから問題になりました皇居前広場に対しましては、いずれ図面で申し上げまするが、警戒態勢をしき相当な人員をこれに配置しまして、そして十分なる警戒態勢をしいたのであります。ただ当日の情勢判断といたしましては、この五つの地区にメーデー行進が分散されて行われる。それから解散後におけるいろいろな情勢判断、起り得べき事件の予想というようなことからいたしまして、皇居前広場に多数の警察官を配置できなかつた点は、全体としての警備態勢上やむを得なかつたと考えております。なお警備計画といたしましては、日比谷公園内において一応解散をする。その解散をした余波がどういう方向に流れるかということにつきましても、十分いろいろ予想を立てまして、もちろん皇居内に入るということも予想されておつたのであります。そして五つに区分されましたメーデー行進が終了次第、手のあいたところから逐次警察力を中央に配置転換いたしまして、そして逐次これを強化して行くというような方法をとつたのであります。ところがこのメーデーの当日になりまして、すでに大会会場におきまして相当混乱状態が起りまして、あるいは石川島造船の一部の分子が会場を占拠したり、あるいは朝鮮人あるいは学生連中が会場を占拠したり、相当混乱の状態があつたのであります。その後無事に大会を終りまして行進に移つたのであります。今の中部班に属するメーデー部隊は、東京交通労働組合の労組が先頭を切りまして、ブラス・バンドをつけて秩序正しく外苑権田原口から右折しまして、青山一丁目に出て行進を開始したのであります。そのころ学生群並びに日雇労働者の一部、それから労組員の一部、これはきわめて過激な尖鋭分子でありまして、これらは別行動をとりまして、信濃町の派出所のあるところから別な梯団をつくりまして、かけ足をもつて、今の秩序正しく進行するメーデー部隊を追い越しまして、そして先頭に立つたのであります。そしてほとんどかけ足のような状態で、日比谷公園の中に走つて来たのであります。そこでこの日比谷公園のところに到着しますや、旧音楽堂付近において、その中の学生群の指導者、あるいは労組員の指導者等が、非常に激越なアジ演説を行いまして、人民広場をわれわれの力によつて闘いとれ、これから乱入しよりというような動議が提出されまして、これに全員同調しまして、日比谷公園の交叉点の入口から怒濤のごとくに流れ出たのであります。一方また南部班というので、虎ノ門、田村町を通りまして日比谷公園内へ入る班があるのでありますが、これも同様に朝鮮人のグループが先頭をかけまして、そして日比谷公園の中に入らずに、祝田橋を渡つて皇居前広場に乱入したのであります。おそらくこれら別動の梯団は、先に日比谷公園内に到着しまして、そこで他の総評傘下の労組員があとについて、そして皇居内に全員入ろうというような計画であつたのではないかということも考えられるのでありますが、幸いにいたしまして、一般の労組員は、こうした尖鋭分子の扇動には絶対乗らずに、総評の主催者の指揮通りに日比谷公園内において一応散会いたしました。そしてメーデーそのものは無事平和裡に終了いたしましたことは、これはこうした不詳事件が起りましたけれども、労働者大衆はこうした一部の扇動に乗らずに、正しく自己の行うべきところを行つたもので、私どもとしましては、今後の労働者大衆の政治活動、政治運動に対しまして注目すべき事柄であり、これらの暴徒との間に、はつきり一線を画したということは、まことに注目すべきことであろうと考えるのであります。
 図面につきまして一応御説明を申し上げたいと思います。これが二重橋であります。これが馬場先門でございます。先ほど私が申しました学生を中心とする約五千のグループ、それから朝鮮人も一部入つておつたと思いますが、共産党地区委員会の委員並びにこれに同調する過激の労組員と思われますが、これらの人々が大体ここに(日比谷公園)約七千くらい、一応集結いたしました。そしてここで(日比谷公園)、これから人民広場を闘いとれというようなアジ演説が始まつたのであります。そして当時の警戒配置といたしましては、ここに約八十七名、ここに三百四十二名、ここに八十二名、ここに三十五名、ここにも三十五名それからここに三十名、六十七名というように、全員七百名以上の者が、ここに一応警戒配置についておつたのであります。ここ(日比谷公園)から怒濤のごとくに、まず三千、四千の二梯団が突出し始めたのであります。そこで八十二名の丸の内の署員がここに警戒しておりましたが、この八十二名を押しのけまして、ここで相当乱闘がありました。これから始まりまして、かけ足でこちら(馬場先門)にかけまして、この間にとまつておりました留駐軍の自動車に対して投石その他棒きれでもつて暴行を働き、窓ガラスその他を相当破壊いたしまして、ここに(馬場先門付近)一応集結いたしたのであります。これが大体二時二十三分であります。そしてあとからあとから続々と来るわけです。それでここに(馬場先門付近)三田、水上警察署を動員しまして約百八十名、それからこれは第一方面予備隊がこれを援護しておつたのでありますが、これが大体三百四十二名ほどおつたのであります。そして一応ここでこれを阻止すべく相当努力いたしたのでありますが、何分にも七千名の力でこれを押して行くのでありますから、これが突破されたわけであります。その際に、ここでとまりましてから約五、六分の間態勢を整えまして、プラカードを割りまして、そしてプラカードの板をはずして、くぎだけを出しまして、それからそれぞれ棒きれ等を用意いたしまして、警察官がここで抵抗するなら、徹底的にこれを殺傷するという目的でやつたと思います。プラカードを割りまして、くぎを出しまして、――これは現実に写真がたくさんとつてありますので、全部証拠物件としてとつてあります。また凶器そのものも押收してございます。そうしてここで衆のはやるのを指導者らしいのが、大分制しておつたようであります。これが大体態勢が整いますと、赤旗その他プラカードを先頭にしまして、喚声を上げてここに突入して行つたのであります。そこでこの三田、水上の百八十名はここで阻止しておつたわけでありますが、逐次これが破られ、そして二箇中隊約二百名くらいの警察官は、喚声を上げて突入して行くこの暴徒の連中と一緒にこれを走つて、追い抜きまして、これに出まして、そしてこの暴徒の先端を行きまして、ここに(二重橋前)すつかり警戒陣をしいてしまつたのであります。なおあとに残りました一箇中隊も、さらに暴徒と一緒に走りまして、これに応援に出かけまして、大体ここに二百数十名の警察官がようやく到着いたしまして、この二重橋前で食いとめたわけであります。そしてこれから入らんとする者をここで十分に防ぎまして、しばらくそのままの状態でおつたのであります。その際に、ここにおりました祝田橋の派出所の三部巡査がこれらの暴徒から迫害を受けまして、あるいはけられたり、なぐられたり、相当な迫害を受けて、本人は人事不省、意識不明に陥つたのであります。その意識不明に陥つた警察官を、数名の暴徒がほりの中に――絶対に動けない抵抗不能に陥つた警察官を、このほりの中にぶち込んでしまうというようなまつたく残虐そのものの行為を、ここでこのような状態でやつたのであります。そうしてなおあとから陸続としてどんどん入つて来たわけであります。それからなおこの連中が入る前に、こういうところから散歩するようなかつこうをして、三々五々こうしたところにおりまして、これが入ろうとすると、これらと一緒に内外呼応して喚声をあげて、内外から突入を威勢づけるような状況になつたのであります。ここへちようど警察官が到着して、これと対峙いたしましたのは約五分間後であります。
 それからなお、ここにおりました三十名、六十七名、これらはこの辺が非常にあぶなくなりましたので、これらは全部こちらに移動いたしまして、ここでこれと一緒になつて入るのを防いでおつたのでありますが、とうとう入られた、こういうことになつております。
 それからややいたしますると、第一方面の加藤予備隊長が、ここにおる暴徒に向つてただちに解散すべし。もし解散をしなければ実力行使をする。場合によつては催涙弾の投擲もやむを得ないから、ただちにここから去れということを何回か拡声機によつて警告を発したのでありまするが、どうしても去らない。そこでやむを得ず、一方において警察官がほりの中にぶち込まれる。随所にまた乱闘事件が起り始めたという状況にありましたので、この加藤予備隊長の命令によつて、これが催涙弾を投擲し始めたのであります。この催涙弾によりまして、これらの暴徒の一部は、ようやくこの芝ふまで、二時四十五分ごろの態勢としましては、後退いたしたのであります。そうしてこちらに二個中隊のほかに、あとから来た中隊がこれに入りまして、三個中隊約三百四十名くらいが、対峙した態勢でじりじり押し始めたのであります。しかしここにおります百八十四名の警察官は、なおここへ入るのをできるだけ阻止しておつたのでありまするが、どんどんこれから入つて来るという状況でありました。
 そのうちに、この三個中隊は、さらに残りの催涙弾によりまして、これはちようど祝田橋の通りでありまして、車が通つているところであります。この車の通つているこの道路上からさらにここまでようやく、催涙弾を投げながら押しつけて来ましたが、これがちようど二時四十五分から十分間かかつて、ここまで押して来たのであります。そうしているところに、南部班の先頭を切りましたきわめて乱暴な朝鮮人グループが桜門からまた突出し始めまして、これがこう参りまして、祝田橋からこの芝ふの方の学生軍の一部にどしどし参加合流するという情勢になつたのであります。従つてこのグループがまた非常に気勢が上り出したのであります。これが大体二時五十五分ごろの情勢で、なおこちらとしてはさらに警戒に当つていたわけであります。この朝鮮人グループがこれに入つて来るときに、ここに若干の警察官がおりまして、これがまたこのほりに数名投げ込まれたのであります。その際に、地検に各警察署から容疑者を押送して来る自動車があつた。その自動車に若干名ずつ警察官が護衛のためについて来る、これが十二、三名ここにおつた。ところが警察官が数名ほりに投げ込まれた。その状況を通行人が知らせてくれたのであります。そこでこの十数名の警察官がこれに参りまして、水におぼれんとしている警察官を引上げて助けようとしたところが、これに対してまたきわめて残虐な暴行を働きまして、ここで上げる警察官をまた突き落し、また上げる警察官を棒で突き落すというような、ほんとうに残酷な行為がここで繰返され、またこの押送の警察官もここで瀕死の重傷を負いまして、これは現在病院に全部入院加療中でございます。
 そのうちに、やがて三時ごろになりますと、この学生群のグループがこの芝ふに移つたのであります。それからまた、このあとから入つて来た朝鮮人のグループが芝ふに入りまして、また再びこちらへ入り込もうというような形勢を示したのであります。そこで、今、各地からの予備隊が続々として到着中でありまして、このうち、六方面予備隊の一個中隊、七方面予備隊の二個中隊がこれに間に合いまして、ここに警戒陣をしきまして、これとここで相頡頏したのであります。これが大体三時五分くらいの時間でありまして、この二個中隊がこのままの態勢で動いて参りまして、正門等に乱入することのないように、ここで防禦態勢をしいておつたのであります。そうしてこういう態勢になりましたのが大体三時十分ころであります。ここで一応警戒態勢というものは、予備隊が若干ここに新たに加わりましたので、すつかり態勢が整つたわけであります。
 それからちようど警視庁よりからこちらの方面に向つて風が吹いております。そうして催涙弾を投げますと、この催涙弾のガスがこちらの方に流れて参りますので、この学生群のはつきりした人数はわかりませんが、大体八千人ぐらいじやないかと思いますが、この風下におりました学生群は、催涙弾のガスを防ぐために風上の方へ移りまして、そうしてこちらの芝ふの方に移つて参りましたので、この朝鮮人グループは、こちらの方に参りました。これが大体三時十五分くらいの情勢であります。そこでまた警戒の警察官は、かような警戒態勢に移つたのであります。そうしてこれと相対峙して、この間に相当な乱闘事件が行われ、こちらから石を投げる、やりで突いて来る、警察官また催涙弾を投げ返す。そうしてここでお互いに棒でもつて突いて来る。これを追い返す。やりみたいなもので突いて来る。やり返す。催涙弾を投げるというような状況で、最後にここに朝鮮人グループが竹やりを全部突き出しまして、こちらの方に突入せんとするような態勢になりまして、ここで警察官はやむを得ず自衛上発砲いたしたのであります。
 そうしてこの尖鋭なる朝鮮人のグループが竹やりでここへつつ込もうとする寸前に、発砲催涙弾のガス等によりまして、さらに三時三十分ごろから押し出しまして、約二十分かかつて、これを再び通りから追い返したのであります。そうして逐次警察官が押して参りますので、このうちの一部の朝鮮人グループ並びに学生グループは、祝田橋から日比谷の方へ脱出をはかつたのであります。この際にこの朝鮮人グループが――学生グループも入つたと思いますが、ここにパークしておりましたアメリカの自動車を転倒させまして、これに放火するというような、きわめて乱暴な行動をやつて、これが逐次解散に移つたのであります。あるいはまた交叉点の方に集まつたというようなわけであります。
 それからしばらく芝ふの辺で対峙しておりましたが、さらに警官が逐次押して参りまして、そのころには出さなくちやなりませんので、それを馬場先門の方に移しまして、そうしてできるだけ解散させるような方法をとつたのであります。そうして三時五十分から約十分間ほどかかりまして、芝ふにおりました暴徒を逐次外へ追い出しまして、大体午後四時十分ぐらいには、完全に警察官が馬場先門まで追い出しまして、暴徒の一部は散つて行つたのでります。なお行つた者に対しては各交番、派出所、警察署等の警戒を厳重にいたしたわけであります。そうして祝田橋の方から来た暴徒、それから馬場先門の方から来た暴徒とが、日比谷公園付近に約千人から千二、三百人ぐらいしばらく停滞しておつたのでありますが、やがて予備隊その他がかなり増強されまして、全部追い払われてしまつた。その間にかようないろいろな事件がありましたが、事件の概要そのものをかいつまんで申し上げますと、こういうような状況で、皇居前広場の乱闘事件というものが推移いたした、こういう状況でございます。
 それでこれによりまして負傷いたしました警察官の数は、昨日法務総裁から国会において発表いたしたと思いますが、重傷者が八十三名、軽傷者が六百七十八名、計七百六十一名の重軽傷者を出したのであります。警視庁といたしましては、ただちにこの騒擾事件を徹底的に検挙する方針に基きまして、検察庁と緊密なる連絡をとりまして、現在特別捜査本部を設置いたしております。本日午前九時までに検挙した人員は三百二十一名、そのうち送致されました人員が二百七十八名、その他拘留人員百十六名、なおただいまもどしどし検挙いたしまして、おそらくこの数は午後におきましては、もつと増加しているものと考えております。警視庁としましては、当日参加しておりました指導分子というものに重点を置きまして、現場における写真その他いろいろな証拠物件等を根拠にいたしまして、さらに検挙人員はどしどし増加されるものと考えております。この事件におきまして警察官が、さつき説明いたしましたごとくに、宮城前におきまして朝鮮人の集団が竹やりを先頭に立てまして、ものすごい勢いで殺到いたしましたので、自己防衛上、正当防衛のために拳銃を発射いたしましたところ、その弾でその中にまじつておつたと思われる東京都の職員組合の高橋という人が死亡しております。そのほか学生らしい人が一人負傷したということを聞いておるのでありますが、昨日のラジオによりますと、学生さんが死亡したということを放送しておるのでありまして、この暴徒の中に何人くらいの負傷者があつたかということは、私の方ではまだ完全に数がとれておりませんが、少くとも数百名の負傷者はあつたのではないかということが一応考えられるのであります。
 今回の皇居前広場における乱闘事件におきまして、警視庁はきわめて警備が手薄で、警戒態勢が不十分じやないかという意見があるのでありますが、これはそういう御意見のあることもごもつともと存じます。ただ冒頭に説明いたしましたごとくに、当日の情勢判断といたしましては、日比谷公園内における解散後のいろいろな行動、また各所におけるいろいろな暴行事件等の発生を考慮いたしまして、どうしても警察の警備態勢をこの一箇所に集中することが非常に困難であり、また危険であつたという状態であります。従つてこの皇居前の警戒につきまして、警戒態勢を解除できるところから逐次警察力を割譲して、皇居前広場の方へ持つて来るというような計画を立ててやつたのであります。
 なお当日のメーデーに対しましては、これは年に一回のメーデーであり、ことに平和独立後の記念すべきメーデーでありますので、いやしくも警察がメーデー行進に介入したり、あるいはまた干渉がましい行為を行つて、これに挑戰的な態度に出るというようなことは絶対に避けなくてはならぬ。メーデー行進に際して、若干のジグザグ行進があつたり、あるいは条件に反した点があつても、また解散後において若干気勢を上げる点があつても、これはなるべく下問に付する。できるだけメーデー行進に対して警察は干渉しない、そうして主催者である総評自体の自主的統制によつて、これを解決させるというような方針をとり、なおこうしたメーデーを利用した暴行行為に対しましては、今申し上げましたように、途中においてもし不法行為をやつた場合においては、かかる不法行為に対しては、断固として取締るという方針をとりまして、四千名の警察官を一応沿道、解散地、その他には配置いたしておつたのであります。
 今回のメーデーで特にわれわれが考えなくてはならぬことは、メーデー行進をやつたその構成員でありますが、最初皇居前広場に乱入をいたしましたグループは、全学連並びに都学連のきわめて尖鋭なる分子であります。それから地区委員会の尖鋭分子、日傭労働者等がこれに参加いたしまして、これらの梯団が第一回に侵入した。それからなお祝田門から乱入いたしましたのは朝鮮人のグループで、これは全部北鮮系であります。これらの連中がすでに皇居前に入るときに、先ほど申しましたように、プラカード等をわざと破壊して、そしてくぎの出た棒を持つとか、あるいは柵をこわして、その柵の棒を持つとか、まつたく警察官に対し挑戰的な一つの戰闘隊形のようなものをつくつて、喚声を上げて乱入をいたして参つたのであります。もちろんこれに対しまして、当初から警察も、相当な暴行があるであろう、ことに拳銃等を奪取されるというようなおそれもありまするので、拳銃に気をとられておつたならば、警察は十分なる活動ができぬであろうということから、予備隊にはごく一部の者に拳銃を持たせまして、大部分はことさら拳銃をはずさせまして、肉弾をもつて、この暴徒にぶつかるという態勢を整えまして、拳銃等は全部はずしまして、一部の者だけ拳銃を持ちまして、また拳銃を発射することによつて、いろいろ暴徒を刺激するということも一応考えられまするので、やむを得ざる場合においては発射する、しからざる場合においてはできるだけ皇居前広場から暴徒をおつぱらつてしまうという方針を立てまして、当初からやつておつたわけであります。ところがわれわれが予想した以上のきわめて残忍なる、いわゆる殺傷行為を主とした戰闘部隊で臨みまして、警察官に挑戰を行い、相互の間にまことに不幸な乱闘が始まりまして、双方に多数の死傷者を出したことは、ほんとうに申訳なく考えております。今後こうしたことが再び起らぬように、われわれとしても細心の注意を払わねばならぬと思います。なお今後の守都態勢につきまして、われわれは今回の警備につきましては、絶対に完全であつたとは言えません。相当不備な点もあつたと存じております。これらにつきましては、私としましても非常に責任を感じておる次第でありまするが、今後さらに装備、施設の改善を行いまして、将来再びこうした騒擾等が発生しないように最善の努力をいたしたいと考えておる次第であります。



新字版
昭和27年05月07日 衆議院 地方行政委員会
[008]
参考人(警視総監) 田中榮一
 五月一日皇居前広場におきましてメーデーが終了いたしましてから、きわめて遺憾なことでありまするが、一部の尖鋭分子が皇居前広場に乱入いたしまして、この間これを制止せんとする警察官との間に乱闘事件が展開されまして、双方の間に相当多数の負傷者を出し、あまつさえ外国人所有の自動車に暴行が加えられ、また何ら関係のない駐留軍の兵隊等に対して、暴徒が暴行を加えたというようなことがありまして、まことに遺憾にたえない次第でございます。この間の点につきましてはいずれ後ほど私から申し上げまするが、メーデー開催までの経過につきまして、一応御説明申し上げたいと思います。
 今回のメーデーの開催は総評の島上善五郎氏が実行委員長になりまして、総評といたしましては統一メーデーをすることに決定をいたしまして、メーデー実施の方法につきまして、いろいろ治安上関係がありまするので、警視庁当局とも再三再四連絡をとりまして、総評側の意見も十分に聴取いたしまするし、また警察側の意見も総評側において十分聴取してもらい、双方意見の一致したところで、今回のメーデー実行案なるものができたのであります。総評側としましては、皇居前広場は目下使用につきましては裁判上の手続によつて係争中でありまするので、とりあえず神宮外苑をメーデー大会の場所とすることに方針が決定をいたしまして、そして神宮外苑において大会を開催する。大会が終了いたしましたならば、全体の参加人員を適当に五つに区分いたしまして、メーデーの行進を実施させるということにきまつたのであります。一班は神宮外苑から出発して新宿駅前において解散をする。他の一つは渋谷の道玄坂の繁華街を行進をして東急の駅前広場において解散をする。それからいま一班は外苑を出まして外堀を通つて九段坂を通り、小石川の後楽園の球場付近の広場において解散をする。これが第三班であります。
 それから第四班としましては、神宮外苑から溜池、虎ノ門、田村町に出まして、日比谷公園において解散する。これを南部班と称しております。それから他の一班は中部班と称しまして、赤坂見付から永田町に出て、永田町から国会の周辺を迂回して霞ケ関に出て霞ケ関から日比谷公園内に入り、日比谷公園において解散をする。大体五つの班にわかれて行進を始めるということになつたのであります。
 警視庁といたしましては、当初これらのメーデーを利用いたしまして、相当過激分子が集団的な暴行をなすであろうというような情報も耳にいたしておりましたので、但しその方法がいかなる方法でやるかということにつきましては、いろいろ予想を立てまして、メーデー実施に要する警戒要員といたしましては、約四千百名ほどを配置いたしまして、メーデーの大会の会場、それからメーデー行進の沿道並びに解散の場所その他を十分に警戒をいたし、またメーデー散会後にいろいろまた不祥事件の発生するおそれもありまするので、こうした場合を予想いたしまして、全七十三の警察署員にほとんど全員を待機させまして、各警察署管内はその署の署員をもつて自衛態勢をとらせるという方針をとりまして、警察から署員を本部の方に引上げて他へ転用することを、なるべく避ける方針をとつたのであります。それからさらに日比谷の解散の場所等は相当混雑々予想し、またいろいろ混乱するおそれもありますので、日比谷の解散地におきましては、相当厳重なる警戒陣をしきまして、その付近一帯を警戒せしめたのであります。それから問題になりました皇居前広場に対しましては、いずれ図面で申し上げまするが、警戒態勢をしき相当な人員をこれに配置しまして、そして十分なる警戒態勢をしいたのであります。ただ当日の情勢判断といたしましては、この五つの地区にメーデー行進が分散されて行われる。それから解散後におけるいろいろな情勢判断、起り得べき事件の予想というようなことからいたしまして、皇居前広場に多数の警察官を配置できなかつた点は、全体としての警備態勢上やむを得なかつたと考えております。なお警備計画といたしましては、日比谷公園内において一応解散をする。その解散をした余波がどういう方向に流れるかということにつきましても、十分いろいろ予想を立てまして、もちろん皇居内に入るということも予想されておつたのであります。そして五つに区分されましたメーデー行進が終了次第、手のあいたところから逐次警察力を中央に配置転換いたしまして、そして逐次これを強化して行くというような方法をとつたのであります。ところがこのメーデーの当日になりまして、すでに大会会場におきまして相当混乱状態が起りまして、あるいは石川島造船の一部の分子が会場を占拠したり、あるいは朝鮮人あるいは学生連中が会場を占拠したり、相当混乱の状態があつたのであります。その後無事に大会を終りまして行進に移つたのであります。今の中部班に属するメーデー部隊は、東京交通労働組合の労組が先頭を切りまして、ブラス・バンドをつけて秩序正しく外苑権田原口から右折しまして、青山一丁目に出て行進を開始したのであります。そのころ学生群並びに日雇労働者の一部、それから労組員の一部、これはきわめて過激な尖鋭分子でありまして、これらは別行動をとりまして、信濃町の派出所のあるところから別な梯団をつくりまして、かけ足をもつて、今の秩序正しく進行するメーデー部隊を追い越しまして、そして先頭に立つたのであります。そしてほとんどかけ足のような状態で、日比谷公園の中に走つて来たのであります。そこでこの日比谷公園のところに到着しますや、旧音楽堂付近において、その中の学生群の指導者、あるいは労組員の指導者等が、非常に激越なアジ演説を行いまして、人民広場をわれわれの力によつて闘いとれ、これから乱入しよりというような動議が提出されまして、これに全員同調しまして、日比谷公園の交叉点の入口から怒濤のごとくに流れ出たのであります。一方また南部班というので、虎ノ門、田村町を通りまして日比谷公園内へ入る班があるのでありますが、これも同様に朝鮮人のグループが先頭をかけまして、そして日比谷公園の中に入らずに、祝田橋を渡つて皇居前広場に乱入したのであります。おそらくこれら別動の梯団は、先に日比谷公園内に到着しまして、そこで他の総評傘下の労組員があとについて、そして皇居内に全員入ろうというような計画であつたのではないかということも考えられるのでありますが、幸いにいたしまして、一般の労組員は、こうした尖鋭分子の扇動には絶対乗らずに、総評の主催者の指揮通りに日比谷公園内において一応散会いたしました。そしてメーデーそのものは無事平和裡に終了いたしましたことは、これはこうした不詳事件が起りましたけれども、労働者大衆はこうした一部の扇動に乗らずに、正しく自己の行うべきところを行つたもので、私どもとしましては、今後の労働者大衆の政治活動、政治運動に対しまして注目すべき事柄であり、これらの暴徒との間に、はつきり一線を画したということは、まことに注目すべきことであろうと考えるのであります。
 図面につきまして一応御説明を申し上げたいと思います。これが二重橋であります。これが馬場先門でございます。先ほど私が申しました学生を中心とする約五千のグループ、それから朝鮮人も一部入つておつたと思いますが、共産党地区委員会の委員並びにこれに同調する過激の労組員と思われますが、これらの人々が大体ここに(日比谷公園)約七千くらい、一応集結いたしました。そしてここで(日比谷公園)、これから人民広場を闘いとれというようなアジ演説が始まつたのであります。そして当時の警戒配置といたしましては、ここに約八十七名、ここに三百四十二名、ここに八十二名、ここに三十五名、ここにも三十五名それからここに三十名、六十七名というように、全員七百名以上の者が、ここに一応警戒配置についておつたのであります。ここ(日比谷公園)から怒濤のごとくに、まず三千、四千の二梯団が突出し始めたのであります。そこで八十二名の丸の内の署員がここに警戒しておりましたが、この八十二名を押しのけまして、ここで相当乱闘がありました。これから始まりまして、かけ足でこちら(馬場先門)にかけまして、この間にとまつておりました留駐軍の自動車に対して投石その他棒きれでもつて暴行を働き、窓ガラスその他を相当破壊いたしまして、ここに(馬場先門付近)一応集結いたしたのであります。これが大体二時二十三分であります。そしてあとからあとから続々と来るわけです。それでここに(馬場先門付近)三田、水上警察署を動員しまして約百八十名、それからこれは第一方面予備隊がこれを援護しておつたのでありますが、これが大体三百四十二名ほどおつたのであります。そして一応ここでこれを阻止すべく相当努力いたしたのでありますが、何分にも七千名の力でこれを押して行くのでありますから、これが突破されたわけであります。その際に、ここでとまりましてから約五、六分の間態勢を整えまして、プラカードを割りまして、そしてプラカードの板をはずして、くぎだけを出しまして、それからそれぞれ棒きれ等を用意いたしまして、警察官がここで抵抗するなら、徹底的にこれを殺傷するという目的でやつたと思います。プラカードを割りまして、くぎを出しまして、――これは現実に写真がたくさんとつてありますので、全部証拠物件としてとつてあります。また凶器そのものも押収してございます。そうしてここで衆のはやるのを指導者らしいのが、大分制しておつたようであります。これが大体態勢が整いますと、赤旗その他プラカードを先頭にしまして、喚声を上げてここに突入して行つたのであります。そこでこの三田、水上の百八十名はここで阻止しておつたわけでありますが、逐次これが破られ、そして二箇中隊約二百名くらいの警察官は、喚声を上げて突入して行くこの暴徒の連中と一緒にこれを走つて、追い抜きまして、これに出まして、そしてこの暴徒の先端を行きまして、ここに(二重橋前)すつかり警戒陣をしいてしまつたのであります。なおあとに残りました一箇中隊も、さらに暴徒と一緒に走りまして、これに応援に出かけまして、大体ここに二百数十名の警察官がようやく到着いたしまして、この二重橋前で食いとめたわけであります。そしてこれから入らんとする者をここで十分に防ぎまして、しばらくそのままの状態でおつたのであります。その際に、ここにおりました祝田橋の派出所の三部巡査がこれらの暴徒から迫害を受けまして、あるいはけられたり、なぐられたり、相当な迫害を受けて、本人は人事不省、意識不明に陥つたのであります。その意識不明に陥つた警察官を、数名の暴徒がほりの中に――絶対に動けない抵抗不能に陥つた警察官を、このほりの中にぶち込んでしまうというようなまつたく残虐そのものの行為を、ここでこのような状態でやつたのであります。そうしてなおあとから陸続としてどんどん入つて来たわけであります。それからなおこの連中が入る前に、こういうところから散歩するようなかつこうをして、三々五々こうしたところにおりまして、これが入ろうとすると、これらと一緒に内外呼応して喚声をあげて、内外から突入を威勢づけるような状況になつたのであります。ここへちようど警察官が到着して、これと対峙いたしましたのは約五分間後であります。
 それからなお、ここにおりました三十名、六十七名、これらはこの辺が非常にあぶなくなりましたので、これらは全部こちらに移動いたしまして、ここでこれと一緒になつて入るのを防いでおつたのでありますが、とうとう入られた、こういうことになつております。
 それからややいたしますると、第一方面の加藤予備隊長が、ここにおる暴徒に向つてただちに解散すべし。もし解散をしなければ実力行使をする。場合によつては催涙弾の投擲もやむを得ないから、ただちにここから去れということを何回か拡声機によつて警告を発したのでありまするが、どうしても去らない。そこでやむを得ず、一方において警察官がほりの中にぶち込まれる。随所にまた乱闘事件が起り始めたという状況にありましたので、この加藤予備隊長の命令によつて、これが催涙弾を投擲し始めたのであります。この催涙弾によりまして、これらの暴徒の一部は、ようやくこの芝ふまで、二時四十五分ごろの態勢としましては、後退いたしたのであります。そうしてこちらに二個中隊のほかに、あとから来た中隊がこれに入りまして、三個中隊約三百四十名くらいが、対峙した態勢でじりじり押し始めたのであります。しかしここにおります百八十四名の警察官は、なおここへ入るのをできるだけ阻止しておつたのでありまするが、どんどんこれから入つて来るという状況でありました。
 そのうちに、この三個中隊は、さらに残りの催涙弾によりまして、これはちようど祝田橋の通りでありまして、車が通つているところであります。この車の通つているこの道路上からさらにここまでようやく、催涙弾を投げながら押しつけて来ましたが、これがちようど二時四十五分から十分間かかつて、ここまで押して来たのであります。そうしているところに、南部班の先頭を切りましたきわめて乱暴な朝鮮人グループが桜門からまた突出し始めまして、これがこう参りまして、祝田橋からこの芝ふの方の学生軍の一部にどしどし参加合流するという情勢になつたのであります。従つてこのグループがまた非常に気勢が上り出したのであります。これが大体二時五十五分ごろの情勢で、なおこちらとしてはさらに警戒に当つていたわけであります。この朝鮮人グループがこれに入つて来るときに、ここに若干の警察官がおりまして、これがまたこのほりに数名投げ込まれたのであります。その際に、地検に各警察署から容疑者を押送して来る自動車があつた。その自動車に若干名ずつ警察官が護衛のためについて来る、これが十二、三名ここにおつた。ところが警察官が数名ほりに投げ込まれた。その状況を通行人が知らせてくれたのであります。そこでこの十数名の警察官がこれに参りまして、水におぼれんとしている警察官を引上げて助けようとしたところが、これに対してまたきわめて残虐な暴行を働きまして、ここで上げる警察官をまた突き落し、また上げる警察官を棒で突き落すというような、ほんとうに残酷な行為がここで繰返され、またこの押送の警察官もここで瀕死の重傷を負いまして、これは現在病院に全部入院加療中でございます。
 そのうちに、やがて三時ごろになりますと、この学生群のグループがこの芝ふに移つたのであります。それからまた、このあとから入つて来た朝鮮人のグループが芝ふに入りまして、また再びこちらへ入り込もうというような形勢を示したのであります。そこで、今、各地からの予備隊が続々として到着中でありまして、このうち、六方面予備隊の一個中隊、七方面予備隊の二個中隊がこれに間に合いまして、ここに警戒陣をしきまして、これとここで相頡頏したのであります。これが大体三時五分くらいの時間でありまして、この二個中隊がこのままの態勢で動いて参りまして、正門等に乱入することのないように、ここで防禦態勢をしいておつたのであります。そうしてこういう態勢になりましたのが大体三時十分ころであります。ここで一応警戒態勢というものは、予備隊が若干ここに新たに加わりましたので、すつかり態勢が整つたわけであります。
 それからちようど警視庁よりからこちらの方面に向つて風が吹いております。そうして催涙弾を投げますと、この催涙弾のガスがこちらの方に流れて参りますので、この学生群のはつきりした人数はわかりませんが、大体八千人ぐらいじやないかと思いますが、この風下におりました学生群は、催涙弾のガスを防ぐために風上の方へ移りまして、そうしてこちらの芝ふの方に移つて参りましたので、この朝鮮人グループは、こちらの方に参りました。これが大体三時十五分くらいの情勢であります。そこでまた警戒の警察官は、かような警戒態勢に移つたのであります。そうしてこれと相対峙して、この間に相当な乱闘事件が行われ、こちらから石を投げる、やりで突いて来る、警察官また催涙弾を投げ返す。そうしてここでお互いに棒でもつて突いて来る。これを追い返す。やりみたいなもので突いて来る。やり返す。催涙弾を投げるというような状況で、最後にここに朝鮮人グループが竹やりを全部突き出しまして、こちらの方に突入せんとするような態勢になりまして、ここで警察官はやむを得ず自衛上発砲いたしたのであります。
 そうしてこの尖鋭なる朝鮮人のグループが竹やりでここへつつ込もうとする寸前に、発砲催涙弾のガス等によりまして、さらに三時三十分ごろから押し出しまして、約二十分かかつて、これを再び通りから追い返したのであります。そうして逐次警察官が押して参りますので、このうちの一部の朝鮮人グループ並びに学生グループは、祝田橋から日比谷の方へ脱出をはかつたのであります。この際にこの朝鮮人グループが――学生グループも入つたと思いますが、ここにパークしておりましたアメリカの自動車を転倒させまして、これに放火するというような、きわめて乱暴な行動をやつて、これが逐次解散に移つたのであります。あるいはまた交叉点の方に集まつたというようなわけであります。
 それからしばらく芝ふの辺で対峙しておりましたが、さらに警官が逐次押して参りまして、そのころには出さなくちやなりませんので、それを馬場先門の方に移しまして、そうしてできるだけ解散させるような方法をとつたのであります。そうして三時五十分から約十分間ほどかかりまして、芝ふにおりました暴徒を逐次外へ追い出しまして、大体午後四時十分ぐらいには、完全に警察官が馬場先門まで追い出しまして、暴徒の一部は散つて行つたのでります。なお行つた者に対しては各交番、派出所、警察署等の警戒を厳重にいたしたわけであります。そうして祝田橋の方から来た暴徒、それから馬場先門の方から来た暴徒とが、日比谷公園付近に約千人から千二、三百人ぐらいしばらく停滞しておつたのでありますが、やがて予備隊その他がかなり増強されまして、全部追い払われてしまつた。その間にかようないろいろな事件がありましたが、事件の概要そのものをかいつまんで申し上げますと、こういうような状況で、皇居前広場の乱闘事件というものが推移いたした、こういう状況でございます。
 それでこれによりまして負傷いたしました警察官の数は、昨日法務総裁から国会において発表いたしたと思いますが、重傷者が八十三名、軽傷者が六百七十八名、計七百六十一名の重軽傷者を出したのであります。警視庁といたしましては、ただちにこの騒擾事件を徹底的に検挙する方針に基きまして、検察庁と緊密なる連絡をとりまして、現在特別捜査本部を設置いたしております。本日午前九時までに検挙した人員は三百二十一名、そのうち送致されました人員が二百七十八名、その他拘留人員百十六名、なおただいまもどしどし検挙いたしまして、おそらくこの数は午後におきましては、もつと増加しているものと考えております。警視庁としましては、当日参加しておりました指導分子というものに重点を置きまして、現場における写真その他いろいろな証拠物件等を根拠にいたしまして、さらに検挙人員はどしどし増加されるものと考えております。この事件におきまして警察官が、さつき説明いたしましたごとくに、宮城前におきまして朝鮮人の集団が竹やりを先頭に立てまして、ものすごい勢いで殺到いたしましたので、自己防衛上、正当防衛のために拳銃を発射いたしましたところ、その弾でその中にまじつておつたと思われる東京都の職員組合の高橋という人が死亡しております。そのほか学生らしい人が一人負傷したということを聞いておるのでありますが、昨日のラジオによりますと、学生さんが死亡したということを放送しておるのでありまして、この暴徒の中に何人くらいの負傷者があつたかということは、私の方ではまだ完全に数がとれておりませんが、少くとも数百名の負傷者はあつたのではないかということが一応考えられるのであります。
 今回の皇居前広場における乱闘事件におきまして、警視庁はきわめて警備が手薄で、警戒態勢が不十分じやないかという意見があるのでありますが、これはそういう御意見のあることもごもつともと存じます。ただ冒頭に説明いたしましたごとくに、当日の情勢判断といたしましては、日比谷公園内における解散後のいろいろな行動、また各所におけるいろいろな暴行事件等の発生を考慮いたしまして、どうしても警察の警備態勢をこの一箇所に集中することが非常に困難であり、また危険であつたという状態であります。従つてこの皇居前の警戒につきまして、警戒態勢を解除できるところから逐次警察力を割譲して、皇居前広場の方へ持つて来るというような計画を立ててやつたのであります。
 なお当日のメーデーに対しましては、これは年に一回のメーデーであり、ことに平和独立後の記念すべきメーデーでありますので、いやしくも警察がメーデー行進に介入したり、あるいはまた干渉がましい行為を行つて、これに挑戦的な態度に出るというようなことは絶対に避けなくてはならぬ。メーデー行進に際して、若干のジグザグ行進があつたり、あるいは条件に反した点があつても、また解散後において若干気勢を上げる点があつても、これはなるべく下問に付する。できるだけメーデー行進に対して警察は干渉しない、そうして主催者である総評自体の自主的統制によつて、これを解決させるというような方針をとり、なおこうしたメーデーを利用した暴行行為に対しましては、今申し上げましたように、途中においてもし不法行為をやつた場合においては、かかる不法行為に対しては、断固として取締るという方針をとりまして、四千名の警察官を一応沿道、解散地、その他には配置いたしておつたのであります。
 今回のメーデーで特にわれわれが考えなくてはならぬことは、メーデー行進をやつたその構成員でありますが、最初皇居前広場に乱入をいたしましたグループは、全学連並びに都学連のきわめて尖鋭なる分子であります。それから地区委員会の尖鋭分子、日傭労働者等がこれに参加いたしまして、これらの梯団が第一回に侵入した。それからなお祝田門から乱入いたしましたのは朝鮮人のグループで、これは全部北鮮系であります。これらの連中がすでに皇居前に入るときに、先ほど申しましたように、プラカード等をわざと破壊して、そしてくぎの出た棒を持つとか、あるいは柵をこわして、その柵の棒を持つとか、まつたく警察官に対し挑戦的な一つの戦闘隊形のようなものをつくつて、喚声を上げて乱入をいたして参つたのであります。もちろんこれに対しまして、当初から警察も、相当な暴行があるであろう、ことに拳銃等を奪取されるというようなおそれもありまするので、拳銃に気をとられておつたならば、警察は十分なる活動ができぬであろうということから、予備隊にはごく一部の者に拳銃を持たせまして、大部分はことさら拳銃をはずさせまして、肉弾をもつて、この暴徒にぶつかるという態勢を整えまして、拳銃等は全部はずしまして、一部の者だけ拳銃を持ちまして、また拳銃を発射することによつて、いろいろ暴徒を刺激するということも一応考えられまするので、やむを得ざる場合においては発射する、しからざる場合においてはできるだけ皇居前広場から暴徒をおつぱらつてしまうという方針を立てまして、当初からやつておつたわけであります。ところがわれわれが予想した以上のきわめて残忍なる、いわゆる殺傷行為を主とした戦闘部隊で臨みまして、警察官に挑戦を行い、相互の間にまことに不幸な乱闘が始まりまして、双方に多数の死傷者を出したことは、ほんとうに申訳なく考えております。今後こうしたことが再び起らぬように、われわれとしても細心の注意を払わねばならぬと思います。なお今後の守都態勢につきまして、われわれは今回の警備につきましては、絶対に完全であつたとは言えません。相当不備な点もあつたと存じております。これらにつきましては、私としましても非常に責任を感じておる次第でありまするが、今後さらに装備、施設の改善を行いまして、将来再びこうした騒擾等が発生しないように最善の努力をいたしたいと考えておる次第であります。
前略と後略は省略、旧字は新字に変換、誤字・脱字は修正、適宜改行、
漢数字は一部アラビア数字に変換、一部括弧と句点を入れ替えています。
基本的に抜粋して掲載していますので、全文は元サイトでご確認ください。